歌川広重による浮世絵木版画の連作『東海道五十三次』は、圧倒的な知名度を誇っているが、そこに描かれた東海道とは江戸時代に徳川家康の指示で作られた街道である。
では、それ以前の時代、人々はどのように東西を行き来していたのだろうか?
東海道の歴史、徳川家康による整備について調べてみた。
江戸時代の 東海道
※歌川広重作・東海道五十三次「日本橋」
歌川広重(うたがわひろしげ、寛政9年(1797年) – 安政5年9月6日(1858年10月12日)は、江戸時代末期の浮世絵師であり、天保3年(1832年)秋、幕府の行列に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。そして、天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。
東海道は、将軍在所の江戸と、天皇在所の京都を結ぶ道で、かつての日本の大動脈であり、江戸時代の主要道路であった五街道の中でも、最も重要な街道であった。この道に沿って、53の宿場が置かれ、旅行者のための厩舎、食事処、宿泊所が営まれていた。
しかし、この姿の東海道が作られたのは江戸時代初期のことである。鎌倉幕府が開かれるまでは、徳川家康が江戸に入城するまで、関東はあまり重要視されていなかった。すべては京の都が中心だったからである。
東海道の成り立ち
※東海道の概略。赤い地域が地域区画としての東海道。
そもそも、東海道とは文字通り「道」の意味もあったが、もう1つは地域区画としての東海道という意味もあった。
古代の律令時代(7世紀後半から10世紀頃)には、日本は五畿七道(ごきしちどう)という行政区画に分けられていた。
五畿とは、大和・山城・摂津・河内・和泉の畿内(関西周辺)五国のこと。
また七道とは東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道という7つの区画を指す。
当時、北海道は蝦夷地と呼ばれ、日本の領土として認識されていなかったため、この五畿七道が日本を構成していたのである。
律令時代の東海道の道幅は、中世や江戸時代の道より広く、より直線的に建設された。
その一方で、当時は大河川に橋を架ける技術は発達しておらず、揖斐川・長良川・木曽川・大井川・安倍川・富士川・多摩川・利根川(当時)といった渡河が困難な大河の下流域を通過するため、むしろ東山道の山道の方が安全と考えられていた時期もあり、東海道が活発になるのは、渡河の仕組が整備された10世紀以降のことと考えられている。
平安時代までの東海道
※平城宮跡
首都が飛鳥に置かれた時期には、大和国の宇陀が東海道方面への入口だったと考えられている。その後、平城京に遷都されると、現在の奈良、三重、愛知へと続いていったと考えられている。あるいは飛鳥や平城京から鈴鹿峠を経由してそのまま伊勢国の港から伊勢湾を横断する海路が用いられる事も多かったとみられている。平安京に遷都されると、起点が平安京に移ったため、886年(仁和2年)には、ほぼ現在の国道1号のルートに準ずるようになった。
三河国(愛知)より東は、駿府(静岡)で富士山の麓である御殿場(ごてんば)を経由し、険しい箱根を北側に迂回する足柄道が取られていた。しかし富士山の延暦噴火(800年〜802年)によりこれの駿河側が通行不能となったため、箱根の西側にある三島から、箱根カルデラを縦貫し小田原へ至る箱根路が開かれる。
その後は海岸沿いに進むが、当時は江戸は開かれていなかったので、東京湾岸の河川の渡河を避け海路をとるため、三浦半島から浦賀水道(東京湾)を渡って房総半島(上総国富津)に入った。そこからは現在の千葉県、茨城県へと道は続く。
この時代の東海道は、物流や旅のための道というよりも、役人が各国を巡察するための意味が強かったので、時代により細かなルートが変更されている。先述のように当時の東海道は重要性が低く、人口分布も現在の関西近辺に集中していたため、関東は辺境の地と見られていたのだ。
中世から江戸時代へ
※鎌倉街道の趣を残す朝比奈切通し(神奈川県)付近。
鎌倉幕府が開かれると、政庁所在地鎌倉は、古い東海道の沿道上に所在することとなった。しかし、「武家の政庁所在地」鎌倉と「朝廷・院の所在地」京都を結ぶ最も重要な街道は、旧時代の東海道ルートをそのまま転用して事足りることになった。神奈川-京都間に「鎌倉街道」と呼ばれる道がいくつか存在するのはその時代の名残りである。
また、戦国時代になると、そのルート上に六角氏の観音寺城、織田氏の清洲城、松平氏の岡崎城・浜松城、今川氏の駿府城、後北条氏の小田原城など、名だたる戦国武将の根拠地が築かれていった。
徳川家康が、1590年(天正18年)に江戸に入城する。この頃の江戸と神奈川県の平塚の間は、中原街道が実質の東海道として機能しており、徳川家康もここを往来していた。中原街道とは、神奈川県中部から以後の東海道よりやや内陸を通るルートである。
しかし、徳川家康は、1601年(慶長6年)の「五街道整備」により、五つの街道と「宿(しゅく)」を制定し、道としての「東海道」が誕生する。日本橋(江戸)から三条大橋(京都)に至る宿駅は、53箇所でいわゆる東海道五十三次である。又、箱根と新居に関所を設けた。
江戸幕府による街道整備
※幕末における東海道の松並木
江戸時代初期の東海道とその宿場は、幕府の書類の輸送や幕府役人および大名が、江戸から各地へ移動する際の荷物の運搬などを円滑に行うためにできたものであり、当初は庶民の往来のためのものではなかった。
『慶長見聞集』によると、江戸幕府は慶長9年(1604)に全国的な道路改修事業を起こし、道幅を広げ、道路の屈曲をやわらげ、牛馬の往来の障害となる小石を取り除き、松や杉などの並木を植えるなどを行ったと記されている。江戸幕府が開かれた翌年である。
道幅は主に6間(約10.8m)とされ、東海道をはじめとする諸国の街道の両側に松や杉を植えた。これにより、並木は、暑い夏には旅人に緑陰を与え、冬は吹き付ける風や雪から旅人を守る。また風雨や日差しから道そのものを守る役割もあった。
やがて、江戸時代も文化・文政期(1804~1830)ごろに、伊勢参宮を中心とした庶民の旅が盛んになると、それ以降は今の我々が知る東海道五十三次の風景が見られるようになったのだ。
最後に
東海道そのものは江戸時代以前にも、ほぼ変わらないルートだと考えていたが、調べてみて時代と共に細かく変更されていた。しかし、江戸時代になった途端に整備されたことも驚きである。徳川家康が早々に東海道を整備したのは、京への街道を整備することが幕府の地盤固めに必要だったからだろう。
そのおかげで我々も木版画の『東海道五十三次』や『富嶽三十六景』(ふがくさんじゅうろっけい)を見ることができているのだ。
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