明治42年(1909)6月23日、日本一といわれたスリの親分・仕立屋銀次が逮捕された。
銀次は250余名の子分を抱えその生活は大富豪並みであり、さらに警察とは互いに利益がある関係を保っていた。
今回は、日本一のスリ一味の大親分として知られ、桃鉄のキャラクターにもなった仕立屋銀次について追求する。
仕立屋からスリの世界へ
仕立屋銀次(本名・富田銀蔵)は慶応2年(1866)3月、本郷区駒込動坂町(現・文京区)で生まれた。
父親の金太郎は紙屑屋と銭湯をやっていたが、明治に入ると父親は正規ではないが浅草・猿屋町署(現・蔵前署)の刑事になった。
銀次が13歳の時、父親は銀次を仕立職人にしようと日本橋の仕立屋に年季奉公に出した。そこは一流の仕立屋で繁盛しており、生来利口だった銀次は店の人達やお得意先でかわいがられたという。
21歳の時、銀次は仕立職としての腕も一人前になり、主人夫婦の紹介で結婚して下谷御徒町(現・台東区)に仕立屋の店をかまえた。当時の仕立屋は、裁縫の修行に来る近所の若い女性達などを受け入れていた。
その中のおくにという美しい女性に銀次は惚れ、いつしか肉体関係を結んだが、なんとおくにの父親は当時東京で名高いスリの親分・清水の熊であった。
銀次は妻を実家に住まわせ、おくにと事実上の夫婦になり一緒に暮らし始めた。この時銀次は26歳、おくには19歳であったという。
こうして銀次はスリ仲間との付き合いができ、面倒見が良いことから若親分と立てられた。
明治32年(1899)、清水の熊が引退すると銀次が32歳で跡目を継いだ。銀次は度胸があり、関西や北関東のスリの親分の縄張り争いを収めたことから、各地から子分が集まるようになった。
そして、東京一の親分にのし上がったのだった。
当時のスリの存在
徳川時代からの慣習で、当時の警察の捜査においてはスリや博徒がしばしば情報収集などの役目をしていた。
スリは他の犯罪情報を流すかわりに、自分達の犯罪は取り締まり側の顔が立てばお目こぼしになることが多かったのである。さらに、すり取られた貴重品も親分に頼めば警察に戻されるという特殊な仕組みができていた。警察の中にはスリと金銭賄賂の関係になって弱みを握られ、スリに頭が上がらない者もいたという。
また、当時はスリを粋な職業として見る面もあったとされる。なぜならスリは暴力をふるわず、手先の技術や心理戦で、狙った相手から金目のものをすり取る一流の手品使いのようであったからだ。狙う相手は裕福な人で貧しい人は相手にせず、人に近づく時は怪しまれないように小ぎれいな格好をしていたという。
スリは外国にも存在するが、日本人は手先が器用で、さらに和服という条件と相まって日本のスリの技術は独特の発達をしたとされる。盗られたものにもよるものの、スリを犯罪視する感覚が薄かったとされ、現代とは違いスリは1つの文化だという感情さえあったという。
金時計事件
明治38年(1905)当時、スリは人口190万人の東京市に約1500人いたといい、スリの被害は1日に約80件以上あり、多い時は130件に及ぶことがあった。
その被害の多さから警察は、翌明治39年(1906)頃からスリを一掃するための厳しい取り締まりを始めたが、一部の警察とスリとの間にあった特殊な関係のこともあり、スリを一掃することは困難であった。
しかし、とある事件をきっかけに事態は一気に変わることとなる。
明治42年(1909)6月21日、前新潟県知事・柏田盛文が麻布の広尾橋から市内電車に乗り青山一丁目に行く途中で金時計をすり取られた。
その時計は公爵・伊藤博文から記念に贈与されたもので、柏田はすぐに赤坂署に届けた。赤坂警察署長・本堂平四郎が部下に命じて調べさせると、犯人は仕立屋銀次の子分であるらしいことを突き止めた。
本堂署長は「警察側の一部とスリ仲間の間でどんな事情があったかは知らないが、この機会を利用して市内スリの一大検挙を行うべきだ」と意気込んだ。
しかし、時計をすられた柏田は、本堂署長に「スリの親分に頼めば返してくれるそうだから」と現金を差し出したという。
当時、日本の警察の要職は鹿児島出身者が多く、歴代の警視総監もそうであった。柏田も鹿児島で生まれており警視総監と親交があった。本堂署長は、そのような警察の権力を握っている薩摩閥を出しぬいてやろうという思いもあったとされる。
銀次逮捕
6月23日、警察は銀次がおくにと子分達とで暮らす北豊島郡日暮里村(現・荒川区)の大邸宅に踏み込み、銀次は警官とともに赤坂署に引き立てられた。
赤坂署は銀次の取り調べをする一方、巡査を各方面に派遣して関係者やその他の親分を検挙した。
銀次の逮捕後、警察が押収したのは慶長小判、宝石、金時計などで他には1冊の盗品台帳があった。それはおくにが手書きしていたもので有力な証拠品であった。
盗品は赤坂署の道場に運んだが、荷馬車2台分あり盗品で山ができたという。銀次達の専門は汽車・電車などの中で仕事をする「函師」で、東海道本線から奥州線までを縄張りにしていた。銀次は250余名の子分をあちこちに派遣して、その上前をはねる他に質屋を営み盗品をさばいていたという。
銀次自身は実際にスリをしたことはなかったが、その生活は全盛期で50~60軒の貸し家を持ち、家賃収入だけで約200円(約70万)あった。
別荘も持ち、手元には常に現金で5万~6万(約1億8千万~2億1千万)あったとされ、弁護士も数人雇っていたほどであった。
判決とその後
銀次の逮捕後、本堂署長のもとに銀次の子分からの嘆願書が届いた。そこには「親分の罪を軽くしてほしい」「これではスリ社会はたまったものではない」などと書かれており、どれほどスリが警察の中に溶け込んでいたかを表していた。
明治43年(1910)3月、銀次は他のスリ親分らとともに有罪になり公判に付された。銀次の初公判は5月13日に東京地方裁判所で開かれた。
銀次は「5年前に子分に跡目を譲ったが、若輩者であり、頼まれて盗品の故買・分配に関係した。しかし、今後は正業に復しますからなにぶん寛大な裁判を」と頭を下げた。
しかし、その後の判決で懲役10年、罰金200円となり予想以上に重い刑になった。これには見せしめの意図が含まれていたとされる。
銀次は刑に服し、大正6年(1917)頃に出獄したとされるが、1年後に盗品の買い取りなどをしていた疑いで再び逮捕され、懲役8年になったという。その後は息子の元で暮らしていたが、昭和5年(1930)3月に新宿三越で反物を万引きしようとして捕まった。
さらに6月にも上野松坂屋で反物を万引きしようとして捕まったが、どちらも不起訴になった。それからの銀次の消息は不明となっている。
その後、銀次の逸話は劇場で上演されたり本になるなど人気を博した。昭和60年(1985)には銀次達の技を継ぐスリが逮捕されるなど、銀次が消えてからも「伝説のスリ」としてその名前は伝えられている。
参考 :
加太こうじ「明治・大正犯罪史」現代史出版会 1980年
小泉輝三朗「明治犯罪史正談」大学書房 1956年
五代夏夫「薩摩問わず語り 上」葦書房 1986年
森長英三郎 「史談裁判第3集」日本評論社 1972年
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