アメリカ大統領をも務めた「アイク」
ドワイト・D・アイゼンハワーの名は、現在アメリカ海軍の原子力空母・ニミッツ級の2番艦にも命名されています。
近年、歴代のアメリカ大統領の名を付与されている、これらの空母の例にもれず、アイゼンハワーは軍人を経て後にはアメリカ大統領まで昇りつめた経歴の持ち主でした。
軍人の頃より「アイク」の愛称で親しまれた彼は、アメリカで、いや世界でも最も出世を遂げたと言える軍人となりました。
そんなアイゼンハワーの経歴について調べてみました。
陸軍士官学校から軍人へ
アイゼンハワーは、1890年にテキサス州で誕生しました。
両親とも移民であり、裕福な家庭ではなかったことから、1909年に高校を卒業するとバター工場で働いたとされています。
そんな中、友人から授業料が無料である海軍兵学校への受験を薦められ、陸軍と海軍の両方の入学試験を受けました。
両方とも試験には合格したものの、海軍には年齢制限で入れなかったことから、1911年にウェストポイントの陸軍士官学校に入学しました。
4年後の1915年に士官学校を卒業し、軍人として第一次世界大戦への従軍を志願しましたが許可されませんでした。
その後1920年(30歳)で少佐となり、1922年から1924年にかけてパナマにおいて将軍の副官を務めるなどしましたが、以後16年の間、階級は少佐のままであり、後々の大出世を考えると雌伏の時を過ごしている状態でした。
マッカーサーとの邂逅
アイゼンハワーは、1935年(45歳)のとき陸軍参謀総長ダグラス・マッカーサー大将の主任補佐武官となりました。
後年、日本を占領した際にGHQの総司令官となるあのマッカーサーです。
同年、マッカーサーがフィリピン政府の軍事顧問とになった際に、マッカーサー本人の希望でその副官を務めることになりました。
このときマッカーサーは、アメリカ軍の武威を誇示する目的で、マニラ市内での軍のパレードを行うことにしました。副官であるアイゼンハワーに企画をさせ、実施にあたっての各種の折衝も任せました。
しかしこの計画が、フィリピン政府を介さずに進められたことから、フィリピン大統領からの抗議を受ける事態が発声しました。
この抗議について、マッカーサーは副官たるアイゼンハワーの落ち度として激しく非難しました。
以後、マッカーサーは事あるごとにアイゼンハワーを叱責し続けたと言われ、嫌気がさしたアイゼンハワーが転属を希望を出しても、それすらことごとく握りつぶしたとされています。
アイゼンハワーはその後、1936年(46歳)にようやく中佐に昇進しました。
第二氏世界大戦とマーシャル大将による抜擢
その後。1940年にアメリカ本土へと戻ったアイゼンハワーは、翌1941年(51歳)3月に大佐、同年9月には准将へと昇進しました。
これは第二次世界大戦が始まったことが影響したものと考えられます。
転機が訪れたのは、同年12月の日本による真珠湾攻撃で日米が戦争に突入した事でした。アメリカの植民地であったフィリピンが日本に占領されたことから、かつてフィリピンで勤務していた経験と知識を軍から認められ、参謀本部戦争計画局次長に抜擢をうけることになりました。
そのポストにおいて、陸軍参謀総長ジョージ・C・マーシャル大将の厚い信任を得ることとなったアイゼンハワーは、翌1942年3月(52歳)、参謀本部に新設された作戦部初代部長に任命され、少将へと昇進しました。
ここでアイゼンハワーは、ドイツに対する作戦計画を立案しました。
彼の計画とは、イギリスを基地とした戦略爆撃・海軍艦艇を用いて、大規模上陸作戦を行い、西北ヨーロッパを制圧するというシナリオでした。
マーシャル大将はこの案を承認、実行に当たる指揮官としてアイゼンハワー本人を起用することを決めました。これに伴い中将へと昇進したアイゼンハワーは、後に「史上最大の作戦」と呼ばれる連合軍のノルマンディー上陸作戦を指揮するため、イギリスへと向かいました。
連合国最高司令官への就任
アイゼンハワーは、連合国遠征軍最高司令官として、ノルマンディー上陸作戦を1944年6月6日に決行しました。
上陸作戦は見事に成功を治め、ついにアイゼンハワーは、同年12月20日(54歳)に陸軍元帥へと昇進しました。
これまで、1920年に少佐となり、中佐への昇進には16年を要し、第二次世界大戦が勃発した時点でも、その中佐に過ぎなかった彼が、その後わずか5年3ヶ月の期間で、陸軍の最高位である元帥へと昇進を果たしたのでした。
戦時とはいえアメリカ陸軍史上空前の大出世であり、1945年の末までの間、ヨーロッパ戦線・450万人の連合軍将兵の最高司令官を務めました。
アイゼンハワーは実戦経験がほとんどないにも関わらず、アメリカ軍においては、かの有名なパットン将軍やブラッドレー将軍、イギリス軍ではモンゴメリー将軍など数々の戦歴を経てきた将軍たちを配下において、類まれな調整能力を発揮し、連合軍の勝利に貢献しました。
軍人だけに留まらず、イギリスのチャーチル首相やソ連のスターリン書記長など、連合国の首脳との折衝にも長じ、後に政治家としても成功を収めることになる、優れた調整能力を発揮しました。
アメリカ大統領への就任
その後アイゼンハワーは、1945年11月から1948年2月までの間、陸軍参謀総長を務めました。続いて冷戦の最中の1950年12月には北大西洋条約機構(NATO)軍の最高司令官に就任しました。
そしてついにアイゼンハワーは、1952年の大統領選挙で周囲から押されて共和党の大統領候補として立候補しました。
大統領選挙を勝ち抜いたアイゼンハワーは、1953年1月20日(63歳)に大統領に就任、ケネディに政権を譲るまでの2期8年に渡ってその職を務めました。
かつての上官であり、日本占領のGHQ総司令官だったマッカーサーは、進んで大統領となる野心を持ち、アイゼンハワーに先立つ1948年、大統領選挙に出馬していました。結果、現職のトルーマンに敗れて、野望が成就することはなく、朝鮮戦争を巡るトルーマンとの確執から総司令官の地位も解任されてしまいました。
奇しくも、フィリピンではマッカーサーに虐げられたアイゼンハワーでしたが、大統領を務めたことで名実ともにマッカーサーを超えた軍人となったのでした。
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