ミリタリー

ノルマンディー上陸作戦 【プライベート・ライアンの描写そのもの】

第二次世界大戦を引き起こし、ヨーロッパの大半をその支配化に収めたナチス・ドイツは、1941年、ソ連へと侵攻した。

ドイツ軍の前に苦戦するソ連はイギリス、アメリカなどの連合国と交渉し、西ヨーロッパに第二戦線を作り出し、ドイツ軍の兵力をそちらへ引きつけようとしたのだった。

連合軍による一大攻勢の始まりである。

ノルマンディー上陸作戦 計画立案

ノルマンディー上陸作戦
※ノルマンディー上陸作戦の作戦計画図(1944年6月6日)。赤はドイツ軍の部隊。輸送路が短くてすむが防御の厚いパ=ド=カレーを避け、落下傘部隊の降下と艦船による砲撃、揚陸を組み合わせている。

ソ連の要請を受けた連合軍は、ドイツ占領下の北フランスへの上陸作戦を立案する。イギリスは、第一次世界大戦で甚大な被害を出した正面からの攻撃を繰り返すのではなく、ヨーロッパを周囲から攻撃することを提案した。しかし、アメリカ側は前線の延長を望まなかったことと、イギリスの勢力拡大意図について心配したため、ドーバー海峡を渡っての上陸作戦を行うようイギリス側を説得し、兵力を集中した上陸作戦となった。

当初は1942年に行われる予定だったその計画は、イギリス軍がスエズ運河を防衛する北アフリカ戦線に釘付けなっていたため延期されてしまう。計画は改めて練り直され、作戦開始は1944年、上陸地点は「ノルマンディー」と決定した。

イギリスからの距離を考えれば、他の地点のほうが良かったのだが、ドイツ軍の防御態勢が強固なため、あえて距離のあるノルマンディーを選んだのである。

作戦内容

ノルマンディー上陸作戦
※ドワイト・D・アイゼンハワー。後の第34代アメリカ合衆国大統領でもある。

ノルマンディーへ上陸する部隊の総司令官はアメリカ軍のアイゼンハワー元帥が務め、地上部隊司令官にはイギリス軍のモントゴメリー元帥が着任した。上陸の第一波は8個師団(うち空挺師団3個)からなり、さらに総戦力として合計47個師団の投入が承認された。内訳はイギリス軍、カナダ軍、自由ヨーロッパ軍26個師団にアメリカ軍21個師団である。

兵員総数は15万という上陸作戦としては史上空前の規模であった。

一般にノルマンディー上陸作戦と呼ばれる、この作戦の正式作戦名は「ネプチューン作戦」、さらに上陸からパリ解放までの作戦全体の正式名称は「オーバーロード作戦」と呼ばれる。

その作戦、オーバーロード作戦は次のようなものだった。

アメリカ軍の二個師団は作戦区域の西側、「ユタ」と「オハマ」と名付けられたコタンタン半島の海岸へと上陸、その後は北西へ進軍して物資の陸揚げに使えるシェルブールの港を確保する。一方のイギリス軍は、作戦区域の東側を担当し、「ゴールド」「ジュノー」「ソード」と名付けた三箇所の海岸に上陸、南東へ進軍して、交通の要衝「カーン」を奪取し、パリへの進撃路を確保する。また、敵をかく乱して上陸を支援するため、三個空挺師団が敵戦線後方に降下することになっていた。

作戦開始

ノルマンディー上陸作戦
※上陸用舟艇内の兵士達。

1944年6月5日深夜、ドイツ軍戦線後方への連合軍空挺師団の降下が開始された。さらに翌6日早朝、激しい艦砲射撃と航空攻撃に続き、上陸用舟艇による連合軍の上陸作戦が開始される。

イギリス軍担当の戦域では順調に上陸が行われたが、アメリカ軍の戦域、特にオハマ・ビーチには歴戦のドイツ軍部隊が守備についていたため、予想を超える激しい戦闘となった。映画『プライベート・ライアン』の冒頭で描かれたシーンが、まさにこのオハマ・ビーチの戦闘である。

苦戦しつつもアメリカ軍は上陸を完了し、橋頭堡(きょうとうほ : 以後の戦闘のための拠点)を築くことに成功する。現代では橋頭堡の確保は海兵隊の任務だが、当時の海兵隊はアメリカ軍内でも重要視されておらず、さらに海兵隊は太平洋戦線に回されていた。

ドイツ軍は上陸作戦があることは察知していたが、戦力を分散させていた。それを集めて反撃に転じようとしたが、それも思うように行かない。制空権を握った連合軍の地上攻撃機による執拗な攻撃が、迅速な部隊の移動を妨げていたのだ。

連合軍の進軍

ノルマンディー上陸作戦
※連合軍の揚陸風景

それでもドイツ軍は装甲師団や重戦車隊といった戦車部隊を中心に各所で奮戦し、連合軍の進撃に抵抗した。出血を強いられながらも前進を続けたアメリカ軍は、6月の終わりにシェルブールを奪取する。しかし、ドイツ軍が撤退の際に港湾施設を破壊し、港内に機雷を敷設したため、補給物資の陸揚げが可能になるまで2ヶ月を要することになった。一方、イギリス軍も苦戦しながら進軍し、7月7日にはカーンへの突入を成功させた。

疲弊したドイツ軍はカーン南方のファレーズで連合軍に包囲され、そこから脱出するための戦闘で数万人規模の兵士が戦死するか捕虜となり、脱出できたものも装備の多くを失う結果となった。
8月25日にはパリが解放され、連合軍はドイツ本国へ進軍するための足場を得ることに成功した。これによりノルマンディー上陸作戦=オーバーロード作戦は終結したのである。

最後に

ノルマンディー上陸作戦は成功したといえるが、開始後は細かな点で計画よりも遅れが生じていた。この規模の作戦であれば仕方のないことではあるが、もし「遅れ」ではなく「失敗」が重なることになれば、15万もの兵を投入した作戦も水泡に帰す。
しかし、この上陸作戦が成功したことにより、ドイツ軍は徐々に劣勢となり、敗戦へと追い込まれてゆくのである。

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