はじめに
男女平等と叫ばれて久しい現代社会ですが、徐々に各方面において女性が社会進出してきています。
世界各国を見渡しても女性の大統領が多く誕生しており、日本でも女性の総理大臣が誕生する日も近いかもしれません。
一説には、1990年代からは、女性優位社会になったとも言われているほどで、女性優位の社会はこれからも暫く続くことになるでしょう。
日本では卑弥呼の時代の後ですから、だいたい西暦250年前後から、男性優位の社会となり、それがずっと続いてきました。
やがて「家」という概念ができてからは、家の外では男性が強く、家の中では女性が強い、「分業時代」が、到来します。
特に江戸時代にはその傾向が顕著に現れ、家の中の実権はすべて女性が握ることも多かったようで、離婚率も高くなったようです。
今回はその間の時代である、戦国時代の女性の生活について書いていこうと思うのですが、皆さんは戦国時代の女性の生活についてどのようなイメージをお持ちですか?
「戦国時代は武士、一般庶民に限らず、子供を産むための道具とされ、武士の世界では政略結婚、一般庶民ででも、自分が意図しない相手と結婚させられた」
「戦国時代に戦に巻き込まれた村の多くは、敗軍の兵士の「乱取り」に遭い、あるものは誘拐されたり、またあるものは乱暴されたりした」
というイメージを持つ方もおられると思います。残念ながらどちらも概ね事実でありますが、そうかといってこの時代を女性が絶望していたわけではなく、むしろ女であることを武器にして強くたくましく生きていました。
そこで今日は
「戦国時代の女性の生活について調べてみた」
と題して、一般庶民と武士の世界にわけて女性の生活を見ていこうと思います。
戦国時代の女性の生活 とは
戦国時代の一般の女性の生活に対しての日本側の史料はほとんどありませんが、戦国時代日本にキリスト教を布教しに来日していた、ルイスフロイスら宣教師たちが記した日記には生活の様子が克明に記してあり、その様子がうかがえます。
戦国時代の多くの村では、年齢ごとに「長老」「中老」「若衆」に分かれており、長老は村の政治の中核となり、他の村との交渉や、その国の領主との交渉をおこなっており、大名同士の合戦でどちらの大名が有利かを判断するのも「長老」でした。なお「中老」は若衆の統率をしていたといいます。
いざ合戦となると、領主は村に出陣する「若衆」の名簿の提出を求めていました。村はその名簿を作り、「若衆」を出陣させたといいます。
領主にとっても戦の出費は大きく、また「若衆」が負傷、討ち死になどしてしまえば、年貢の減収につながってしまうため、頭の痛い問題でした。
そしてその合戦の間農作業や家事その他のことはすべて女性が行っていました。特にご近所付き合いは女性にとって大切な仕事であり、冠婚葬祭などは女性が中心になって働いたといいます。
またこの時代には既に花嫁修業があり、「礼法」「歌学」「茶道」「書道」「芸事」などの教養を積み、嫁ぎ先にその免状を持参するというのが習わしだったようです。
ルイスフロイスの日記に
「女性が既に字の読み書きができたということに、驚いている」
と書かれており、一般庶民の間にもかなりの教養があったことがわかります。
結婚については、近親同士の結婚は禁止とされていましたが、この頃は武家でも庶民の間でも行われておりました。ただ女性は結婚しても他の男性と関係を持つことは普通にあったようで、「望まない妊娠」というのもあり、中絶が頻回に行われていたというのも事実です。
さらにこの時代女性一人での旅行なども普通にできたいたようで、これにも宣教師たちは驚いたとかかれていました。
このように戦国時代の女性の生活はある程度自由ではありましたが、やはり「家」を重んじるしゃかいであったため、結婚は自由にできなかったようです。
戦国時代の武家の女性の生活
戦国時代大名の娘に待っているのは、政略結婚でした、政略結婚は時には大名家同士の同盟のため、またある時には実力を持った大名に服従する証として「人質」という形で嫁いでいくという女性もおりました。
また、稀に男性が一目ぼれして結婚というのもありましたが、この場合でも女性の自由はなく、意中の相手ではなくても結婚しなければならなかったといいます。
しかしお姫様の中にも、戦好きで男性より活躍したお姫様もいました。その具体的な例がが、映画「のぼうの城」にも登場する「甲斐姫」です。映画では榮倉奈々が演じていましたね。
彼女は豊臣家の攻撃から忍城【埼玉県行田市】を守った勇猛な姫として今でもかたりつがれています。
また他にも戦には多くの女性が活躍していたようで、戦における鉄砲隊を構成する兵士たちのほとんどが女性であったという記録があります。
事実徳川家康の家臣本多忠勝の書いた史料には
「男たちは血を見ただけで逃げだしてしまう者も多い中、女性は敵に攻め込まれても勇敢に突撃していく」
と感心する記述があり、多くの戦において女性が活躍していたことがわかります。
このように武家の女性においても、やはり結婚こそ自由にはできませんでしたが、戦などでたくましく活躍するという側面があったことがわかります。
このように戦国時代の一般庶民の女性と武家の女性の生活について見てきましたが、いかがだったでしょうか?
確かにすぐ隣に命の危険が迫る大変つらい時代だったとは思いますが、そんな中でも懸命に今を生きる女性の姿を見ることができたかと思います。
また当時は女性が子供を産むための道具とされた原因は男性:女性の比率が7:3と圧倒的に男性が多かったからともいわれています。
いろいろな原因が重なってのことだったことがわかります。
今日も読んで頂きありがとうございました。
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戦国時代に女城主がいたとか、大河ドラマでやってますが、本当か?
疑わしく思う。だって戦に出られるのかって。このサイトの記事にも
妙なコスプレした写真が載ってますが。男女の体力の差がわかって
いるのだろうか?(サイトの上の方に、世界では女の首相、大統領が
たくさん出てきていると書かれていますが。西洋以外だったら、そういう
ケースの実に多くは、父親が大統領・首相だったか、亭主がそうだった
人ですよ。それも多くの場合、その夫は暗殺されてた人。そして女の
国家元首って汚職その他で、追われる人が実に多い。最近の韓国でも
そうでしょ。彼女の父親は軍事クーデターで独裁者になり、暗殺された
人)
江戸時代の離婚は、夫からの一方的なもので、これが三下り半。
日本は戦前迄、女子の地位は非常に低い。戦前は、家族間でも食事の
内容、座る場所が違ってました。戸主である夫(祖父同居の場合は祖父)
が一番偉い。魚もお頭付き。次がすべてを相続する長男。男家族が終わって
次が女たち。地方によっては、女は男達の食べ残しを食べるのが習慣。
また、女の食事は台所という所も。鹿児島がそのいい例。
このサイトを書いた方へ。参考文献を下に書いていた方がいいですよ。
日本史に詳しい人が見ても、耐えられる内容にするためにも。
(血を見て逃げ出す男とは?何でしょうね?一部、女戦士がいた?)
あの座敷の座る決まりは、外部からの襲撃に対応するための配置であって、上下関係とか地位は、まったく関係ないんですが、何を言っているのです?
江戸時代は後継が女性しかいない家の婿取り婚も
普通に行われていて、それほど女性の地位は低くなかった。
本田忠勝のところは「当今の武者」と比較していますね。女性兵士に関しては、南北朝から戦国時代までの合戦での戦死者が葬られたとされる鎌倉市材木座遺跡や茨城県江戸崎古城西遺跡、群馬県碓氷郡原市町簗瀬八幡平の首塚、静岡県沼津市千本松原の首塚などから発掘された人骨はほぼ成年男性が七割、成年女性が三割だったそうです。
「女性は結婚しても他の男性と関係を持つことは普通」←これについては上野千鶴子、田中優子、佐伯順子などのフェミニスト論壇の影響が窺えます。だったら大名の分国法にある妻敵討など必要性ないです。小谷野敦氏の『改訂新版 江戸幻想批判 「江戸の性愛」礼賛論を撃つ』なんかを読んでみるべきでしょう。
またルイスフロイスは、インド管区巡察師のアレッサンドロ・ヴァリニャーノに「誇張癖があり、小心で些細なことにこだわり、中庸を保てず、口が軽い」と言われいます。事実彼の著作には誇張、誤解などが多く散見されます