太古から不老不死は人類の夢であった。
エジプトのミイラ作りは死者の復活を信じて行われ、ハンガリーのエリザベート・バートリ伯爵夫人は、若返りのために若い女性の生き血を浴びた。
しかし、求めずとも不死伝説の1ページに名を残した人物がいる。
中世ヨーロッパの社交界に突如としてデビューした「サン・ジェルマン伯爵」である。
パリの社交界へ
※サン・ジェルマン伯爵
スペイン王妃マリア・アンナ・フォン・デア・プファルツ=ノイブルクとメルガル伯爵の私生児といわれるが、その出生は不明のままで、しかも彼がフランスの社交界にデビューしたのは、1758年以降、67歳のころだといわれている。
しかし、その容姿は30代にしか見えなかったというから、謎の人物であった。
社交界にあらわれたとはいえ、彼が歴史の表舞台に立つことはない。実在したという記録は残されているが、彼を知る唯一の手掛かりは、彼と接した人々の証言ばかりである。しかも、歴史上に名を残すような貴族や王族、芸術家などの証言も多い。さらに驚くべきは、彼についての証言に共通したものとして、「常識では考えられない」印象ばかりを述べている点があり、どこまでを信じてよいのか分からない始末であった。
人とも思えない高すぎる教養
伯爵というからには、どこかの領主であったはずだが、それも不明である。彼は歴史のなかにふらりと現れてわずかばかりの足跡を残し、またどこかへ消えるということを繰り返していたからだった。
サン・ジェルマンの名前が最初に見られるのは、1746年のロンドンである。作曲家兼バイオリニストとして過ごすが、その後12年間の消息は途絶えており、1758年にパリに現れた。そこでサン・ジェルマンは、フランス国王ルイ15世に「人類史上もっとも貴重な発見」を教えることを条件に、研究室として使える王族所有の施設の利用許可を求めた。その後は、シャンボール城の使用を許され、ここに研究室を設けたといわれている。
※サン・ジェルマン伯爵が研究室を構えたというシャンボール城
貴族でありながら研究室を欲したのは、彼がただの貴族ではなく、高度な教養を身につけた知識の探求者でもあったからだ。語学、化学、音楽、絵画とあらゆる文化に精通し、錬金術師でもあった。語学については、フランス語やドイツ語だけではなく、ヨーロッパの主要な言語や、ラテン語、アラビア語、サンスクリット語、中国語など12ヶ国後を完璧に話せたという。
時代を超える記憶
シャンボール城という居場所を得たサン・ジェルマンは、国王の愛人であったポンパドゥール公爵夫人と親しくなり、夫人のサロンにも出入りしている。しかも、話題の中心にはいつも彼がいたという。哲学者であり文学者、歴史家としても名の知られていたヴォルテールも、「サン・ジェルマンはすべてのことを知っている」と驚きを隠せなかった。
しかも、サン・ジェルマンは、突拍子もない話を始めることも多く、例えば「私は、200年ほど昔にスペインの国王、フェルディナンド5世の大臣を務めていたこともあってね」とサラッといい、信じようとしない相手には当時の公文書を見せたという。
※ポンパドゥール公爵夫人
さらに200年などささいに思えるスケールの話をしたこともあった。
「バビロニアではバビロンの都にも行きましたよ。壮麗な都でした」とか「イエスは水を酒に変えて見せた。人々は驚いて、これがカナの婚礼の奇跡と呼ばれるようになったわけです」という具合である。
人々は彼の話を疑うことなく聞いていたという。
謁見する錬金術師
ポンパドゥール公爵夫人の紹介によりルイ15世と面会する機会を得たサン・ジェルマンは、国王にその聡明さを高く評価されて以後は親しい間柄となった。だが、ルイ15世との出会いには別の説もある。
サン・ジェルマンの噂を耳にした駐仏オーストリア大使が、国王に彼のことを話し、それに興味を持った国王はすぐに面会を望んだ。当日、現れたサン・ジェルマンは40代くらいの静かな紳士であった。
※ルイ15世
サン・ジェルマンは国王に頭を下げると、無造作にポケットから何かを取り出して、テーブルの上にバラバラと置いた。よく見ると、どれも見事なダイヤモンドである。
「陛下への贈り物にございます。どうぞお納め下さい」
「このような見事なダイヤをどこで手に入れたのだ?」
驚く国王に対してサン・ジェルマンは、さらりと答えた。
「これは私が作ったもので買ったものではありません」と。このことが切っ掛けでパリの社交界へ現れるようになったという。
そこでも十字軍に参加したときのことを懐かしそうに話し始め、疑いの眼差しを向けるものがいれば、使用人に「あの時のことを君からも話してあげなさい」と促した。しかし、使用人は首を横に降り「それは無理でございます。私が伯爵にお仕えしてからまだ500年しか経っていませんので」と答え、サン・ジェルマンは「ああ、そうだったね」などと返してた。
サン・ジェルマン伯爵 は死んだのか?
サン・ジェルマン伯爵はしばらくパリの社交界でその名を広めたが、それを妬んだショワズール公爵の策略により、宮廷から追い出されるようにパリを後にした。1760年のことである。そして、1784年、ドイツの地で死亡した。晩年の彼を知る当地の領主によれば、93歳だったと伝えられている。
しかし、これで彼の物語は終わったわけではない。
生前から丸薬とパンしか食べず、普通の食事をしているところを目撃されたことのないサン・ジェルマンは、自ら「自分は不老不死である」と語っていた。それが事実なのか、彼はその後も様々な時代、様々なところで目撃されている。
パリのフリーメイソンの会合にいた、フランス革命では革命広場に現れた、さらには二度の世界大戦の間にも、サン・ジェルマンらしき紳士の目撃例もあり、彼が本当にこの世を去ったのかも謎のままである。
最後に
サン・ジェルマンなる人物は実在した。しかし、その正体は誰にも分からない。宝飾品をちりばめた服を身にまとい、聡明ながらやわらかな物腰の紳士。一般の貴族のみならず、フランス国王まで会っているのだから実在はしたのだ。
一説には「タイムトラベラー」ではないかという近年の推測もあるが、現代でも世界のどこかで、ルイ15世と謁見したときの話を聞かせているのかもしれない。
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サン・ジェルマンなる人物は実在した。しかし、その正体は誰にも分からない。宝飾品をちりばめた服を身にまとい、聡明ながらやわらかな物腰の紳士とある。 あらゆる専門分野の知識と教養を見につけ、神出鬼没に出現する人物。
特に化学にも精通し、研究室もあったとされればそこで何を研究していたのか。それこそ不老不死の妙薬を作り出したのか。
いや、いくら何でも飛躍しすぎている。 しかし、そう考えた方が夢のある想像を掻き立てる。
時代を駆ける男。時にはこんな話もなかなかである。 トランシルバニア地方では有名なドラキュラ伯爵という不老不死の怪物ではないが、サンジェルマン伯爵は何者なのか、興味がつかない。