三國志

劉備玄徳が母親思いだったというのは本当なのか?

[ikemenres]

・吉川英治の小説『三国志』

湖南文山に続いて、明治時代に久保天随という人物が同じく『三国志演義』の翻訳である『新訳演義三国志』を出しているが、日本における三国志普及に最大の役割を果たしたのは、なんといっても吉川英治による小説『三国志であろう。

「お前が、わしを歓ばせるつもりで、はるばる苦労して持っておいでた茶を、河へ捨ててしもうた母の心がわかりますか」

「……わかりません。おっ母さん、玄徳は愚鈍です。どこが悪い、なにが気にいらぬと、叱って下さい。仰っしゃって下さい」

「いいえ!」

 母は、つよく頭を振り、

「勘ちがいをおしでない。母は自分の気ままから叱るのではありません。――大事な剣を人手に渡すようなお前を育ててきたことを、わたしは母として、ご先祖にも、死んだお父さんにも、済まなく思うたからです」

まさに、かの有名なエピソードである。

吉川英治は、”江戸時代の『通俗三国志』と、明治時代の新訳演義三国志』の長所を取り入れつつ、自己流の創作を加えて、小説『三国志』を執筆した”と語っている。劉備玄徳の母をキャラクター化したのも、「お茶を川に捨てる」というインパクトあるエピソードも、吉川英治の創作だったのである。

 

「桃園の誓い」もみてみよう。

「われらここにあるの三名。同年同月同日に生まるるを希わず、願わくば同年同月同日に死なん」と、呶鳴った。

張飛は、牛の如く飲み、馬のごとく喰ってから、「そうそう。ここの席に、劉母公がいないという法はない。われわれ三人、兄弟の杯をしたからには、俺にとっても、尊敬すべきおっ母さんだ。――ひとつおっ母さんをこれへ連れてきて、乾杯しなおそう」急に、そんなことを云いだすと、張飛はふらふら母屋のほうへ馳けて行った。そしてやがて、劉母公を、無理に、自分の背中へ負って、ひょろひょろ戻ってきた。

「母を拝して」というほんの少しの記述を、ここまで膨らませられるとは、さすが国民的大作家。

日本人受けする「親子愛エピソード」を物語の冒頭に配置した効果もあり、吉川英治版『三国志』は大ヒットし、その後も現在に至るまで、その影響はとどまるところを知らない。

 

・その後の影響

吉川『三国志』の影響を強く受けた横山光輝の漫画が同じ設定を踏襲している。物語冒頭には、お茶のエピソードを含めて、母子の深い愛情の物語が描かれている。

この漫画もまた大ヒット作となり、この作品で『三国志』を知った人も多いことから、「劉備玄徳は母親思い」というイメージはかなり強く日本で定着することになった。

そして、人気だったNHK人形劇 『三国志』

こちらも本来は、『三国志演義』立間祥介訳を原作としているのに、玄徳の母が登場する。

これには人形を作った川本喜八郎が、吉川英治の強い影響を受けていることが作用していると推測される。

渋谷駅ヒカリエの『川本喜八郎人形ギャラリー』の解説にこんな記述を見つけた。

同じ吉川英治の作品でも、 川本が時期的に早くから取り組んだのは、 『三国志』でなく『新平家』であった。 『三国志』終了後19849月頃から、 映像化のあてもないまま、 主要な人物の首(かしら)を作り始めた。

この記述から川本喜八郎自身は『三国志演義』ではなく、吉川英治『三国志』の人形を作っている、という意図がうかがえる。

NHK人形劇 三国志』のDVDを確認してみたところ、劉備の母は、人形劇全68回の53話「名将の死」で亡くなっていた。

劉備が漢中王になる直前まで生き続けたということになる。演義でいうと全120回中の70回辺りまで生きたことになる。

それまでの間、劉備の母は物語の要所に登場し、昔と変わらず、たくましく、むしろを織り続けて、劉備の精神的支えとなっていく。

実は吉川『三国志』ですら、母の死去は、はるかもっと前に登場する。劉備が「徐州にいたころ、世を去った」とされるが、これは吉川英治歴史時代文庫の全8巻の3巻に記載されている。

吉川英治版以上に、この人形劇での劉備の母の存在感は強烈である。

この人形劇も大人気作となったため、「劉備玄徳は母親思い」というイメージを定着させるのにかなり貢献している。

・まとめ

「劉備玄徳は母親思い」というイメージは主に吉川英治によって作られ、その影響を受けた後の人々によってさらに増幅されたということがわかった。

しかし、たとえこれが創作であったとしても、人々から支持されるものでなければ、こんなにもインパクトを残すことはなかっただろう。

「劉備玄徳は母親思い」というイメージの本当の創作者は、吉川英治の描いた玄徳像に感動した日本の読者一人一人であったともいえるかもしれない。

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赤壁の戦いについてわかりやすくまとめてみた

三国志 全巻⇒1冊に収録

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武蔵大納言

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生まれは平安時代。時空の割れ目に紛れ込んでしまったことにより、平成の世に紛れ込む。塾や予備校で古文漢文を教えながら、現代日本語を習得。現在は塾・予備校での指導の傍ら、古典文学や歴史についてのライターとしても活動している。
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