今年も残すところあとわずか、年末から年始にかけてお酒を飲む機会が増える時期ですが、歴史に名を刻む権力者たちとお酒に関するエピソードについて調べてみました。
ナポレオンとワイン「失意の理由は好きなお酒が飲めないから」
アルプスの山越えを描いた有名な絵ですが、実際は白馬ではなくロバに乗っていたとのこと。
フランスの皇帝にして英雄として名高いナポレオン・ボナパルト。
その人気は没後200年近くが経過した現代でも、フランスのみならず世界レベルで高い人気を誇っていますが、そんな彼が愛したワインがブルゴーニュ地方の名ワイン『シャンベルタン』です。
古代から育まれた豊かな土壌を持つブルゴーニュのシャンベルタン村で作られるワインですが、高級品の多いブルゴーニュ産ワインの中でも最も優れたワインとされている一品です。
ナポレオンはこのワインをこよなく愛し、シャンベルタン以外のワインは口にせず、なんと遠征先にまで持参したという逸話が残されています。
しかしそんなシャンベルタンをこよなく愛したナポレオンですが、1815年の百日天下での敗北後、遠く離れた大西洋の孤島のセントヘレナ島に流されてしまいます。
実はセントヘレナ島は2016年に空港が開港するまで、交通手段といえば3週間に1度南アフリカのケープタウンから5日かけてやってくる定期船のみという有様だったため、ナポレオンが流された19世紀初頭の僻地ぶりは現在とは比べ物にならないものだった事でしょう。
当然遠く離れたフランスから、愛するシャンベルタンを取り寄せることも難しかったことでしょう。
加えてナポレオンに対する監視の目は厳しく、特にナポレオンの監視の総責任者だった島の総督のハドソン・ローはナポレオンに対して露骨なほど無礼な態度で接し、腐ったワインや食料を支給したという話も残されています。
セントヘレナ島で幽閉中の1820年10月13日に、ナポレオンに支給されていた食料の明細書が2015年にオークションに出されましたが、それによると大量の牛肉と子牛肉、羊肉、豚肉、シチメンチョウ、ガチョウ、ハト、ニワトリ、新鮮な野菜と牛乳、卵、そしてビールとラム酒にコニャック、そしてワインが日々ナポレオンの軟禁されていたロングウッド・ハウスに納品されており、実はかなり豪華な食生活を送っていたようですが、残念ながらこの明細書の中にシャンベルタンは記されていません。
愛する祖国とシャンベルタンを奪われたナポレオンは、この明細書の約8か月後の1821年5月5日にその生涯を終えますが、果たしてその胸中がどんなものだったのか気になるところです。
スターリンの宴会は冷や汗もの「油断大敵、深酒も大敵」
『史上最悪の独裁者』として忌み嫌われているスターリンですが、実は大変な美食家であり、フルシチョフやベリヤ、マレンコフ、モロトフといった側近とともに連日豪華な食事をたくさん並べた宴会を催していましたが、側近たちにとって決して楽しい酒の宴ではなかったようです。
夜型人間のスターリンが一日の執務を終えるのは午前1〜3時ごろの場合が多く、それから側近たちを呼び寄せて長時間の宴を開始したので、普通の生活を送っている側近たちにはたまったものではなく、寝不足となり、腎臓や肝臓を悪くするものが続出したそうです。
またこの宴会はスターリンによる側近の忠誠度のチェックの目的もありました。
『相手の本音を引き出すのは酔いつぶれさせるのが一番』そう考えていたスターリンは側近にしこたまウォッカを飲ませる一方で、自身は水を飲んで酔っているふりをして側近を観察すると同時に、その酔いつぶれた様を見て楽しんでいたそうです。
ちなみにスターリンは自分の故郷のグルジアワインをこよなく愛しており、あまりウォッカは飲まなかったそうです。
一方の側近たちはそんなスターリンの魂胆を知っており、酔いつぶれてめったなことを口走らないようにビクビクしながらこの酒宴に参加し、スターリンの機嫌を損なわないようにかくし芸を疲労するなど、気苦労が絶えなかったそうです。
この酒宴はスターリンが脳卒中で亡くなる前夜まで継続されたとのことです。
朴正煕の晩酌「始まりと終わりの酒」
韓国史上最長期政権を樹立し、経済発展など今日の韓国社会の礎を築いた功労者として評価される朴正煕(パク・チョンヒ)ですが、実はその人生の分岐点にはあるお酒が大きな役割を果たしています。
1961年5月16日、朴正煕は仲間たちを率いてクーデターを実行しますが、実は数日前の段階で計画が政府側に漏れており、頼りにしていた師団の出動が不可能になってしまいました。この時点で朴正煕の下に集まった兵力は3500人で、対する政府軍は総勢60万人と圧倒的に不利な状況下でした。
そんな不安を打ち消すため朴正煕はやかん1杯分のマッコリ(どぶろく)をあおり決起部隊の出動を命じました。
この時、決起部隊の前に酒のにおいをぷんぷんさせて現れた朴正煕を見た決起部隊の皆さんは呆れたそうですが、その後 特に大きな衝突も起きずクーデターは成功します。
この一件見ても分かるように朴正煕はマッコリが好きで、大統領就任後も晩酌の際は青唐辛子に味噌をつけたものや、タラの味噌漬けをつまみにマッコリを飲むのが定番だったそうです。
しかしその後、韓国経済も順調に発展して国全体が裕福になると朴正煕の晩酌スタイルも変化しはじめ、飲む酒もマッコリから洋酒に変化し、特にスコッチウィスキーのシーバスリーガルが大のお気に入りとなります。
1974年8月15日に、在日韓国人文世光の手で妻の陸英修を暗殺されて以来、その寂しさを紛らわせるためか朴正煕の酒量は増えました。
連日のようにソウル市内の宮井洞にある中央情報部(KCIA)所有の秘密宴会場、通称安全家屋で芸能人やモデルといった若い女性を相手に酒宴を催すようになりますが、それと比例して国内では民主化を求めるデモや暴動が頻発し、対米関係もリベラル派のカーター政権との軋轢が深刻化します。
こうした惨状に危機感を抱いた金載圭(きんさいけい)中央情報部長は朴正煕に諫言をしますが聞き入れられず逆に叱責され、不満を募らせ遂に朴正煕の暗殺を決意します。
1979年10月26日、この日も朴正煕から酒宴を開きたいという連絡を受けた金載圭は、計画を実行に移します。
この日の酒宴にも大好きなシーバスリーガルが用意されており、金載圭の企みを知らぬ朴正煕はホステス役の女子大生と人気歌手の沈守峰(シム・スボン)のサービスを受けながら上機嫌で杯を重ねます。
この日の宴会には他に金載圭が忌み嫌っていた車智澈(チャ・ジチョル)警護室長と、旧友である金桂元(キム・ゲウォン)秘書室長が招かれていましたが、実は金載圭はこの時重度の肝臓病を患っており、車智澈はもともとアルコールに弱い体質だったため、実際に飲んでいたのは朴正煕と金桂元秘書室長の二人だったのです。
この日は、まるでこれから起こることを予感していたかの様に何故か酒のペースが速く、飲み始めて1時間ほどでシーバスリーガル1瓶半を空け、ほろ酔い状態となったところに中座していた金載圭が拳銃を手に戻ってきてまず車智澈に向かって発砲し、続いて朴正煕の胸をめがけて発砲しました・・・
こうしてマッコリで始まった朴正煕の時代は、シーバスリーガルで幕を閉じました。
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