中国史

「合格率0.1%未満」1300年続いた古代中国の超難関試験『科挙』とは?

科挙って何?

画像 : 科挙 public domain

科挙(かきょ)とは、中国の官僚を選ぶための試験制度である。

隋の時代(587年頃)に始まり、唐の時代に本格的に整備された。
以降、歴代王朝で受け継がれ、最終的に1905年に廃止されるまで、約1300年もの間続いた。

それ以前の官僚登用制度である九品中正制では、家柄や地方豪族の推薦が重視されていた。

しかし、科挙は学識と試験の成績によって人材を選ぶ制度であり、貴族や門閥に関係なく「誰でも官職に就く機会が与えられる画期的な仕組み」だったのである。

そのため、学問の才能さえあれば、庶民でも高位の官僚になることが可能となった。

とはいえ、科挙は並大抵の試験ではなかった。
受験者には膨大な知識と高度な文章力が求められ、合格するのはごくわずか。

試験内容は儒教の経典が中心で、唐代以降は詩や論文、そして明・清時代には「八股文」と呼ばれる独特の文章形式での解答が必須とされた。

まさに、超難関試験だったのだ。

受験者数と合格率

科挙の受験者数は、時代によって大きく変わった。

唐代の進士試験では、数百人から千人ほどが受験し、合格者は数十人程度だった。

しかし、明代になると受験者が爆発的に増加し、地方試験「郷試」では10万人を超えることもあった。

画像 : 科挙の合格発表の情景 public domain

中央試験となる「会試」を突破できるのはその中のごく一部で、最終関門である「殿試」を経て『進士』の称号を得られるのは、数十人から数百人程度であった。

合格率は時代ごとに異なるが、記録によると

唐代:「進士」試験の合格者は 0.5%程度
宋代:受験者数の増加により 0.2%程度
明・清代:「郷試」→「会試」→「殿試」と進むごとに絞られ、最終的な『進士』の合格率は 0.1%未満の場合も

このように、非常に狭き門だったのである。

また、郷試・会試・殿試のすべてで首席合格を果たした者は「三元」と称され、最高の栄誉とされた。
これは、郷試の首席を「解元」、会試の首席を「会元」、殿試の首席を「状元」と呼んだことが基であり、麻雀の役「大三元」はこの「三元」に由来しているという。

まさに、科挙に合格することは「人生の一発逆転」だったのである。

特に進士の首席合格者である「状元」になれば、特別待遇を受けることができた。

朝廷から重用され、皇帝からも直接名前を呼ばれ、出世の道が大きく開かれたのだ。

科挙の日程と環境

科挙の試験は数日間にわたって行われ、受験者は極めて過酷な環境に置かれた。

清代の貢院(こういん)では、内部に「号舎(ごうしゃ)」と呼ばれる幅約1メートル、奥行き2メートルほどの狭い個室が並び、受験者はそこで試験の全期間を過ごさなければならなかった。

画像 : 貢院の号舎 public domain

明・清時代の郷試や会試では、試験は三日間にわたって実施され、受験者は課題に取り組みながら、食事や休息も号舎内で行うことを強いられた。

試験の過酷さから、体調を崩したり、極度の緊張や疲労により命を落とす受験者も少なくなかった。

明・清時代の貢院では、試験中に死亡した受験者の遺体が、試験終了後に運び出されることもあったという。

科挙は単なる学力試験ではなく、精神力と体力の極限に挑む試練だったのである。

科挙でカンニングする人がいた!?

このように、科挙は厳格な試験制度として運営されていたが、その難易度の高さゆえに、不正行為を試みる者は後を絶たなかった。

清代になると、試験会場への入場時には厳しい身体検査が行われ、持ち込み品のチェックも徹底された。
それでも受験者たちは巧妙な手口を編み出し、試験を突破しようとした。

最も一般的な不正は、カンニングペーパーの持ち込みである。

画像 : 科挙の試験で持ち込まれたカンニングペーパー public domain

儒教の経典や重要な解釈を極小の字で紙に書き込み、それを衣服の内側に縫い込んだり、靴の中に隠したりする手口が使われた。

また、蝉の羽や極薄の金箔に文字を刻み、それを硯(すずり)の底や筆管の内部に忍ばせるという、精巧な方法も存在した。

さらに、大胆な手法として「替え玉受験」を行う者もいたという。

当時は身分証明書がなく、試験官も地元の受験者以外には顔が分からないことが多かった。このため、代理受験者は依頼者とともに試験に登録し、試験当日は近くの席に座ることで、答案をすり替えたのである。

しかし、最も深刻な不正は「試験官の買収」であった。

試験官に賄賂を贈り、試験問題を事前に漏洩してもらったり、成績を改ざんしてもらうなどのケースが後を絶たなかった。

このため、試験官や採点役人が受験者を特定できないようにする「糊名法(のりなほう)」という制度が厳格に運用された。
この制度は唐の武則天時代に導入されていたが、明清時代にはさらに徹底され、答案から受験者の氏名や出身地が隠されるようになった。

それでも、抜け道を探す受験者は後を絶たず、度々大規模な不正事件が発覚した。

科挙に合格することは人生の一発逆転のチャンスであり、家族の名誉も背負っていたため、人々の執念は尽きることがなかったのである。

不正した者の悲惨な結末

画像 : 科挙試験を視察する皇帝 public domain

順治14年(1657年)、清朝の科挙において史上最大級の不正事件が発生した。

この年の試験では、順治帝の命により試験官20名が任命され、不正を厳しく取り締まるはずだった。

しかし、実際には試験前から賄賂が横行し、試験官たちは金銭を受け取って合格者を事前に決定していた。
特に江南の試験では、合格発表前から一部の受験生の家で祝宴が開かれるなど、露骨な不正が見られた。

こうした状況に憤慨した士子や知識人たちは、試験の不正を告発。

朝廷による徹底的な調査が行われ、その結果、江南の試験官16名が処刑され、関与した受験生の中には笞刑(打四十大板)や、流刑に処される者もいた。さらに、数百名の受験生が不正の影響を受けたとして、北京で再試験を受けることになった。

おわりに

科挙は単なる試験ではなく、国家の未来を担う人材を輩出する場でもあった。

しかし一方で、合格すること自体が目的化し、不正を働く者や、実際の政治運営とはかけ離れた学問ばかりが重視される弊害もあった。
そのため、清朝末期には改革の声が高まり、1905年に制度は正式に廃止された。

現代の中国における官僚登用試験や大学入試の競争の激しさには、科挙の影響が色濃く残っていると言われる。

1300年もの間、中国社会を支えたこの制度は、功罪相半ばしながらも、中国の歴史と文化に深く刻まれているのである。

参考 : 『資治通鑑』『清史稿』他
文 / 草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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