劉備のイメージと現実
三国志の入門編として人気の漫画やゲームでは、劉備玄徳 を主人公に据えた作品が多い。
作品のベースとして演義が題材にされているため、必然的に演義の主人公的存在である劉備と蜀が話の中心となる訳だが、主人公という事もあって演義の劉備は漢室再興を最大の目標として掲げ、民を第一に考える仁君として描かれており、それが世間一般の劉備に対するイメージとなっている。
演義では「自分の理想の世のために戦う仁君」として描かれているが、正史では目の前の状況と自身の利を冷静に考えた上で行動する「徹底的なリアリスト」として描かれている。
今回は、演義で描かれた仁君とは違う、正史に描かれた劉備の実像に迫る。
若き日の劉備
劉備が子供の頃に「自分も偉くなって天子の馬車に乗る」と話してその通りになったのは有名な話だが、若い頃のエピソードはあまり知られていない。
早くに父親を亡くして生活に苦労していた時期もあったが、若い頃の劉備はオシャレや遊びを楽しむ、何処にでもいる普通の若者だった。(学問より遊びを優先していたというのも若者らしい)
乱世を生き抜いた世渡りの上手さを見ても分かるが、劉備はコミュニケーション力に長けた人間であり地元の豪傑や若者と積極的に交わったため有名人となり、劉備の名を聞いて近付いた豪傑の中には関羽と張飛もいた。(この時期の劉備は「血の気の多い連中を纏める親分」という表現が適切であり、リーダーではなく親分と表現されるのは劉備のイメージからは意外に見える)
黄巾の乱をきっかけに旗揚げした劉備は、関羽、張飛を主力とした義勇軍を結成して、乱の鎮圧に貢献する。
この功績が認められて劉備は安熹県の尉に任命されるが、督郵(監察官)が公務でやって来た際に面会を断られた(劉備は自分が罷免されるのではと疑心暗鬼になっていた)ため、劉備は督郵を縛り上げて杖で叩き、そのまま逃亡してしまう。
演義では賄賂を求めた事に腹を立てた張飛が督郵を暴行したため劉備は職を捨てて逃げるハメになるが、このシーンは劉備のイメージダウンを避けるための改変ある。(この事件は張飛に対する「粗暴」というイメージの定着に一役買っているが、史実の張飛は目上の人間には弱いためこの手の暴力事件は起こしていない)
「あの」劉備が個人的な怒りで暴力事件を起こしたという事実にも驚くが、正史の劉備の行動を見ると意外と人を裏切っている事が多く、蜀も劉璋から奪う形で手に入れているので、実際は自分の利益を最優先に動く人間だったという実像が見えて来る。
徐州をすぐに捨てた損得勘定の上手さ
正史の劉備を見ていて気付づくことがある。
関羽、張飛を主力とした傭兵軍団から一国の皇帝となるのは運だけでは不可能であり、いつ滅ぼされてもおかしくない環境に身を置きながら生き残ったのは何故だろうか。
その答えは「損得勘定の上手さ」である。
次に、劉備が手に入れた領地と、手放した経緯を振り返る。
劉備が初めて手に入れた領地といえば徐州だが、徐州は、劉備の前任者である陶謙と曹操が激しく争っていた上に、後に自称皇帝を名乗る袁術からも狙われるなど、統治が非常に難しい土地だった。
陶謙の援軍として徐州に向かったら気に入られ、陶謙が病没する際に後継者として統治を任されるという、劉備としてはまさかの展開だったが、一州の長になった喜びよりも前述の理由による不安要素の方が大きかった。(最終的には徐州の統治を引き受けるが、冷静に考えたらいつ攻められてもおかしくない「地雷」のような土地をお願いされたら嫌がるのが普通の反応である)
予想通り劉備の統治も長くは続かず、陶謙に徐州を譲られてから僅か2年で呂布に奪われてしまう。
とはいえ、劉備としては厄介な土地の統治に頭を悩ませる必要がなくなり、曹操の傘下に入る事によって安全が保証されるなどメリットしかなかった。(劉備にとって都合のいい解釈になるが、その後の歴史の流れから見ると呂布に徐州を奪われたのは劉備にとって必ずしも悪い話ではなかった)
曹操とともに呂布を滅ぼした後、劉備は曹操から徐州を奪おうと画策するが、戦力の差はどうしようもなく、曹操に完膚なきまでに叩きのめされるとともに、関羽も曹操に捕えられて降伏してしまう。
損得勘定で動くリアリストの劉備としては珍しい、分の悪い勝負に持ち込んでからの敗北だったが、何とか生き延びて袁紹を頼る事になる。(そして、袁紹と曹操の争いで袁紹の旗色が悪くなったらすぐに袁紹に見切りを付ける「先を読む力」はさすがである)
荊州をすぐには手に入れなかった理由
袁紹に見切りを付けた劉備は荊州の劉表を頼り、ここでも厚遇される。
中国の中央部にある荊州は交通の要衝であり、天下を狙う者にとってどうしても手に入れたい土地だった。
劉備が目標としていた天下三分の計は荊州を足掛かりに益州を手に入れて独立する計画だったが、劉備は劉表から荊州を譲りたいと言われても存命中は頑なに断っていた。
待望の荊州を手に入れるチャンスが目の前にありながら何故断ったのか、中国が重要視している血縁主義を根拠に断っている演義では分かりづらいが、当時の時代背景を見るとその理由が見えて来る。
劉表が寿命を迎えようとしていた時、曹操が荊州を手に入れるため南下を始めていた。
徐州の前例があるように、曹操が攻め込んで来る時期にわざわざ統治を引き受けるのは自殺行為でしかなかった。
また、荊州は地元豪族の影響力が強い土地柄であるため統治者の独裁を許さない風潮があり、劉表は天下を狙いたくても狙えない事情があった。
それは劉備も同じであり、荊州は拠点として重要な土地ではあったが、降伏論の強いこの時期に劉備が無理してまで手に入れる必要はなかった。
またもや放浪生活になってしまった劉備だが、曹操と対抗するために劉備の力を必要としていた魯粛によって助けられ、赤壁で曹操を破った後に漁夫の利を得るような形で荊州を手に入れる。
火事場泥棒という見方もあるが、回り道になろうと自身の利を最大限に優先して動いたからこそ得られた戦果であり、これも結果論になるが荊州の地元グループの反発を受けずに荊州を手に入れる最善手だった。
乱世を生き抜いたリアリスト
徐州と荊州に関する劉備の行動から見て分かるのは、乱世を生き抜いたリアリストとしての姿である。
冷静な損得勘定から統治権の禅譲を断ったという事実を、美談に作り替えて現代まで語り継がれているのは一重に「三国志演義」の作者の羅貫中の手腕だが、劉備が理想に生きていた場合、早い段階で曹操に滅ぼされていた可能性も否定出来ない。(歴史は数々の偶然が重なっているため劉備がリアリストだから生き残れたというのも結果論ではある)
歴史書に書かれた内容から判断するしかないとはいえ、劉備は人を引き付ける魅力を持った人物だったという描写から、人徳や為政者としての才能があったのは間違いない。
また、小説の読者という観点で考えたら「損得勘定の得意な世渡り上手」よりも「自分の理想とする世を作るため生きる絵に描いたような主人公」の方が世間一般には受け入れられるし、事実それが現在の劉備像になっている。
演義にはない狡猾な一面があったとはいえ人には慕われていたのは間違いないのだから、いわゆるテンプレ的な主人公にする必要もなかったように感じるが、正史と演義で見られる劉備のギャップは興味深い。
そして、その両方から劉備「らしさ」を感じられるのだから、劉備は時代関係なく人を引き付ける魅力を持った天性の「人たらし」でもあった。
記事を読ませて戴きました。当記事と他の方々が書かれた記事を照らし合わせて纏めると劉備は現代でいえば頭のきれるヤクザの組長みたいな人で関羽・張飛・趙雲は凄腕の用心棒の様な人なのかも知れませんね。其の様な組織体質こそが彼等に栄光を齎しそして破滅せしめた要素と云えるのではないでしょうか?
コメントありがとうございます。
まさに親分と用心棒みたいな関係であったろうと自分も思います。
劉邦もおそらく近い人物だったのでしょうね。