日本人の多くは「三国志」と聞くと、史実『三国志』よりも、それを元にした歴史小説『三国志演義』の方をイメージすると思います。
しかし、両者を読み比べてみると結構違いがあるもので、同一人物でも設定が違っていたり、結末が変わっていたりなどすることも多く、その傾向はマイナー武将ほど大きいように感じました。
(例えば曹操や劉備三兄弟、孫権といったメジャーな武将は、あまりキャラを改変してしまうとファンの反発が予想されるため、マイナー武将のアレンジによって創作の個性を強調したかったのでしょう)
そんな作者の事情によって改変されたキャラの中には、小説よりも奇なエピソードを持っていながら、それが物語化の中で抜け落ちてしまったものも少なくありません。
そこで今回は、演義よりも興味深い史実エピソードを持っていた王忠(おう ちゅう)のエピソードを紹介したいと思います。
目次
まずは『三国志演義』の王忠から
王忠と聞いてピン!と来る方はかなりの三国志ファンだと思いますが、彼は「乱世の姦雄」として名高い曹操(そう そう。字は孟徳)の武将として登場します。
王忠は建安四199年、劉岱(りゅう たい。字は公山)とコンビを組んで曹操の命令を受け、徐州(現:山東省南東部)を乗っ取った劉備(りゅう び。字は玄徳)の討伐に向かいました。
しかし劉備に「曹操が自ら攻めて来たならともかく、王忠なんぞ100人束になっても怖くない」とばかり軽くあしらわれたばかりか、あっけなくに生け捕りにされた上、豪勢なおもてなしを受けてスゴスゴと退却。
劉備としては「曹操と和睦できるよう、上手く仲介してよ」というつもりだったそうですが、領土を騙し討ちで奪い取っておいて和睦しようなどと、あまりに虫が良すぎるというもの。
「この役立たずどもめ……二人まとめて処刑してしまえ!」
怒り狂った曹操によって殺されかけた二人ですが、周囲の助命嘆願によってどうにか助かり、そのまま物語の舞台から退場してしまったのでした。
飢えに苦しみ、アレに手を出して糊口をしのいだ青年時代
以上、『三国志演義』における王忠の実に冴えない「かませ犬」「引き立て役」っぷりを紹介しましたが、今度は史実『三国志』における王忠の生涯を追ってみましょう。
王忠の生年や字、出自については不詳。司隷扶風郡(現:陝西省宝鶏市)の出身で、若い頃は地元の治安を守る亭長(ていちょう)の職に就いていたそうです。
しかし、この一帯は前漢時代、旧都・長安(現:西安市)建設のため大陸各地より移住させられてきた者が多かったために昔から治安が悪く、しばしば叛乱が起きて国土が荒廃。慢性的な飢饉に苦しめられます。
作物は実らず、わずかな収穫は片っ端から奪われ……食べられるものは鳥獣や魚はもちろん、虫であろうが、それこそ木の根や草の葉に至るまで、すべて食い尽くしてしまいました。
「おい李四、もう屋根藁は残ってねぇのか」
「みんな食い尽くしちまったよ。どうせ雨も降ンねぇし、別に困ンねぇと思っていたら、陽射しがキツくてかなわねぇな」
「おい、ホント何かねぇのかよ」
「聞いたところじゃ、隣の村で馬糞を食ってみたやつがいるらしいぜ」
「マジかよ。やべぇなそいつ」
「温かいのはダメらしいが、すっかり冷めたヤツを川の水で洗いほぐして、馬の腹でこなれて柔らかくなった秣(まぐさ)を食ったんだとよ」
「うげ……もうちょっとマシなモンが食いてぇが、バッタやミミズも食い尽くしちまったな」
「きのう一日、地べたを這いつくばってアリ三匹食ったが、足りる訳ねぇよ」
「そう言やぁこの前、張三が死んだぞ」
「アイツ、いつも壁土はがしちゃァほおばってたもんな。確かに『腹いっぱい』食えたろうから、本望だったかも知ンねぇな」
「いっぱいと言えば、死体に湧いた蛆虫を掻き集めて食っていた陳七も、腹に虫が湧いて、腸(はらわた)を食い破られて死んじまったよ……」
などとまぁ、およそロクでもない会話が繰り広げられる中で、村のリーダー格だった王忠が口を開きました。
「死体を食った蛆虫を食う……それってもう、死体を食ってるのと変わンねぇよな?」
誰もが一度は考えつきながら、決して口にしてはならないタブー発言を聞いて、一同が凍りつきます。
「おい亭長……アンタ自分が何言ってるか解ってンのか?」
「そうだよ。いくら飢えても人の肉なんて……」
「……キレイゴトで腹が膨れンのかよ。いい子でみんな飢え死にしたって、誰も褒めちゃあくれねぇよ。それより一人でも多く生き延びて、死んだヤツらの供養でもしてやった方が、よっぽど功徳になるってモンさ」
「……俺も、女房とガキ3人みんな亡くした。このまま死んでなるものか!」
「そうだ、死んだ人間も大事だが、まだ生きている人間はもっと大事だ!」
「よし、食おう!」
……かくして、みんな鉈や包丁を手に手にとって死体から肉を切り取り、それを食って食わせてどうにか糊口をしのいだということです。
義兵を起こして婁圭を撃破、曹操に仕官する
それからしばらく経った初平二191年、朝廷で横暴の限りを尽くした董卓(とう たく。字は仲穎)が首都を洛陽(現:河南省)から長安へ移したため、王忠の身辺はより一層の混乱を深めることとなりました。
「おい亭長、このままじゃ俺たち、死ぬまで董卓に搾取されるばっかりだ」
「そうだな……俺たちも、董卓を討つべく義兵を挙げよう。とは言っても多勢に無勢だから、まずは荊州(現:湖北省)へ南下して仲間を集めようじゃないか」
「「「おおぅ……っ!」」」
連年大旱 天逼民反(日照りばかりで 天が民に叛乱を迫る)
苛捐雑税 官逼民反(過酷な徴税で お上が民の叛乱を煽る)
若要不反 難死不遠(叛乱しようがしまいが どっちみち死ぬんだから)
大家起来 実行正義(みんな立ち上がって 天下に正義を示すのだ!)※高文『南梁史話』より、劉志丹の詩文。
※カッコ内は意訳、最後の2文字は「共産(革命)」から「正義」に改変。
さっそく王忠は兵を集めて荊州へと向かい、各地を転戦した(略奪して回った?)末に出会ったのが、南陽(現:湖北省随州市)一帯に勢力を持っていた婁圭(ろう けい。字は子伯)でした。
「ふん……飢民ふぜいが起義挙兵(きぎきょへい。義に起ち兵を挙げる)などとカッコつけたところで、しょせんは食い扶持目当てに群がって来ただけじゃろうが……」
この頃、董卓はとっく(初平三192年)に殺されており、その残党たちを掃討するべく各地で戦闘が勃発。王忠たちも残敵掃討に奮闘していましたが、婁圭にすれば似たようなものに見えたのかも知れません。
「何だと……義勇軍の何が悪い!天下憂国の志は同じはずだ……それとも何か?身分がなくちゃ人間じゃねぇとでも言うのか!」
バカにされて腹を立てた王忠は、仲間入りするのをやめて婁圭を襲撃。さんざんに蹴散らした上で、曹操に仕官することとしました。
一方の婁圭も負け戦によって威信が失墜。ボロボロになって曹操の元へ逃げ込み、そのまま仕えたのですが、さぞかし気まずかったことでしょう。
順調な出世の裏で、笑いものにされた黒歴史
さて、曹操に仕えた王忠は各地を転戦して、中郎将・揚武将軍・軽車将軍を歴任。都亭侯にまで順調に出世していきました。
そんな建安四199年、王忠は『三国志演義』と同じく、徐州を奪い取った劉備の討伐を命じられます。勝利を収めることは出来なかったものの、生け捕られるようなこともなく撤退。とりあえずその場はナァナァとなったようです。
ちなみに、コンビとして出陣した劉岱も無事に帰還し、その後は司空長史を務め、列侯に封ぜられたのでした。
以降の王忠は特にこれと言った武勲なども見られませんが、建安十八213年、曹操に対して魏公の位に就くよう勧める文書に署名を連ねています。
そして正始三242年に没したのですが、戦さ働き以外にもエピソードが伝わっているので、そちらも紹介したいと思います。
いつ頃かは不詳ですが、王忠は曹操やその後継者・曹丕(そう ひ。字は子桓)らと遊びに行った王忠は、曹丕から「お土産を用意しておいたよ!」と言われました。
「あ、有難き仕合わせにございまする」
鞍に結びつけておいたから……これはナイスな趣向(サプライズ)だと思い、馬をつないだ場所へ行って見ると、愛馬の鞍には髑髏(ドクロ)が結びつけてあります。
「……これは、一体?」
何か嫌な予感に戸惑う王忠の姿を見て、曹丕はドッキリ大成功!とばかりに爆笑。
「どうしたんだよ……お前がカニバリスト(人肉嗜食者)って聞いたからさ……嬉しいだろ?もっと喜べよ、この野蛮人めが!」
聞けばこの髑髏、わざわざ命じて墓から盗掘させてきたとのことで、いっときの酔狂で人間の死を冒涜する無神経さに、よりいっそう腹が立ちます。
……この野郎!王忠の全身が、血に滾ったことは想像に難くありません。どこから過去の黒歴史を聞きつけたのかは知りませんが、立場の弱い者をなぶって楽しむ曹丕の悪趣味ぶりだけはよく判ります。
(誰が好き好んで、人の肉など食うものか……あの時、あぁしなければ助からなかった。自分だけでなく、仲間もその家族も助けたかった。自分が村のリーダーとして、率先して罪業に染まらねばならなかった……それがなぜ解らないか!)
いや……解っているからこそ、あえてやったのでしょう。曹丕という男には、そういう「頭の良さ」がありました。そして、王忠が妻子を思うがゆえに、このまま泣き寝入りするであろう事も……。
「強者の侮辱にへつらい顔で臨むなら、その者はすでに男ではない」
※和田竜『のぼうの城』より。
人肉を食ってまで生き延びて、数々の死闘をくぐり抜けた末にやっと手に入れ、築き上げた家庭を失いたくない。大切な家族を、自分ひとりの怒りによって不幸にしたくない……その選択は賢明ではありながら、自らが男であることの放棄を意味しました。
(ちくしょう!ちくしょう!ちくしょう……っ!)
既に年老い、叛逆の闘志を失ってしまった王忠の怒りと悲しみは、千八百年の歳月を経てなお察するに余りあるものです。
魂までは売り渡せない!王忠が見せた男の意地
そんな後味の悪い事があってから、王忠にまつわるエピソードをもう一つ。
黄初五224年、曹丕がお気に入りの寵臣・呉質(ご しつ。字は季重)の屋敷で酒宴を開催した時のことです。宴席に招かれていた曹真(そう しん。字は子丹。曹丕の従弟)が肥っていたので、呉質がこれをからかいました。
「え、主君の親族にそんな事していいの?」と思ってしまいますが、呉質の方が曹真よりも寵愛されており、また曹丕は「自分以外の曹一族はみんなsage(さげ。バカにして、疎んじること)」なので、お構いなしです。
(※もちろん、寵愛していない者がそんなことをすれば「曹一族に対する不敬」を理由に処刑したでしょうが)
これを見た王忠が、どのような態度をとったのか……実は史料によって正反対の記述がなされています。
『三国志』本編と別に書き足された「呉質別伝」だと、王忠が呉質に迎合して、曹洪(そうこう。字は子廉)と共に曹真を茶化し、その怒りを煽ったとされていますが、『三国志』の「王粲(おうさん)伝」では、曹洪と共に、曹丕の寵愛を嵩にかかった呉質の非礼を責めているのです。
一体どっちが正しいのか……恐らくは「王粲伝」が正しく、その態度が気に食わない、あるいは曹丕をヨイショさせたい誰か(例えば呉質やその子孫、あるいは親しかった者など)が「王忠と曹洪も呉質に迎合したんだ」と書き換えたのでしょう。
※あるいは文字が汚くて、その字を逆の意味に読んで(書き写して)しまったのかも知れません。
「武ある者が武なき者を足蹴にし、才ある者が才なき者の鼻面をいいように引き回す。これが人の世か。ならばわしはいやじゃ。わしだけはいやじゃ」
※和田竜『のぼうの城』より。
髑髏の一件以来、王忠はずっと葛藤していたのだと思います。時として妥協しなければならない場面はあるにしても、魂まで売り渡したくない……男として、武人として、せめてもの意地を見せたのだと思います。
『三国志演義』では、作者のご都合主義によって雑魚キャラに改変されてしまっている王忠のような男たちは、まだまだ史実に眠っていますから、是非とも彼らのドラマを発見して貰えたら嬉しいです。
※参考文献:
陳寿『正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫)』ちくま学芸文庫、1994年3月
羅漢中『三国志演義 1 (角川ソフィア文庫)』角川ソフィア文庫、2019年6月
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