三国志には、史実『三国志』にはもちろん、歴史小説『三国志演義』にも登場しないけど、読者から人気を誇るキャラクターが存在します。
今回紹介するのは、三国志のスピンオフ作品『花関索伝(かかんさくでん)』の主人公・関索(かんさく)と、その妻であるヒロイン鮑三娘(ほう さんじょう)。
史実に記録がない以上フィクションなのですが、伝承の現地では実際に墓が造られていたり、槍で掘り当てた泉が湧いていたりと、さも実在していたかのように慕われているようです。
二人はどのように出会い、そして別れたのでしょうか。
目次
諸葛亮さえ引き立て役?!史実も無視して関索ひとりが大活躍する俺TUEEEEストーリー
まず、彼女たちが登場する『花関索伝』についてごくざっくり解説すると、関羽(かん う)の三男である関索(かん さく)が並み居る智将豪傑を差し置いて、チート的に大活躍する俺TUEEEEな無双ストーリーが特徴です。
とにかく関索を活躍させるためだったら史実も完全無視の荒唐無稽な内容で、彼の前では名将だった父はもちろん、『三国志演義』では天才軍師として有名な諸葛亮(しょかつ りょう)さえも愚かな引き立て役にされてしまいます。
しかし、良くも悪くもインパクトは十分だったようで、『花関索伝』の存在は本家?『三国志演義』にも影響を与え、最初はチョイ役で関索が登場し、すぐにフェイドアウトする程度から、生い立ちや武勇伝などがしっかり肉づけされたものまで、様々なバリエーションが生まれました。
何せフィクションなので「関羽の三男」という以外の設定はほとんど作者のクリエイティビティに任されていますが、ここではごくざっくりと関索と鮑三娘の生涯をたどってみようと思います。
生まれる前から殺されかける!スリリングな幕開け
関索の生涯は、生まれる前からスリリングでした。
時は中平元184年、黄巾賊を討伐する義勇軍を興し、天下に奉公する志を立てた劉備(りゅう び)三兄弟。旅立ちに際して故郷に未練が残らないよう「それぞれの家族を殺してしまおう」という話になりました。
(戦力になる男性は兵員の足しに連れていくでしょうから、彼らが殺そうとしているのは女性や幼児、高齢者という事になります。ちょっとショッキングですね)
とは言うものの、自分の家族に手をかけるのは忍びないため、関羽が劉備の家族を殺し、劉備は張飛(ちょう ひ)の家族を、そして張飛が関羽の家族を殺すため、それぞれ出かけていきます。
「関兄貴の家はここか……おい、夫の足手まといにならないよう、死んでもらうぜ!」
関羽の家にいた妻・胡金定(こ きんてい)に白刃を突きつけた張飛でしたが、彼女のお腹が大きいことに気づきます。
「……ちぇっ、出陣前に胎児を殺すのはゲンが悪ぃや……しょうがねぇ。兄貴たちには黙っておいてやるから、さっさと行け!」
家から追い出された胡金定は、実家の胡員外(こ いんがい)を頼って移住します。員外とは正規官僚の員数外で、カネで買える役職。転じて「金持ち≒地主の旦那」程度の意味です。
そこで産み落とした子供が後に成長して関索となり、数奇な運命の結果、スーパー少年として数々の武勇伝を生み出していくのでした。
「私に勝った者を夫とする!」鮑三娘の宣言
一方の鮑三娘は、鮑家荘(現在地は不詳)の地主である鮑員外こと鮑凱(ほう がい)の娘として生まれ、兄の鮑礼(ほう れい)や鮑義(ほう ぎ)と共に父から武芸を叩き込まれた文武両道の美少女でした。
そんな彼女を妻にと求める声は後を絶たず、家の門前には求婚者が行列を作るほどでしたが、彼女は笑って相手にしません。
「私に勝った者をこそ、私は夫と認めよう!」
大胆不敵な宣言を前に、ほとんどの者は尻込みして逃げ出していきました。彼女の腕前は誰もが知り、恐れていたからです。
たまに事情を知らない腕自慢が挑戦しても、鮑三娘は軽くぶちのめしてしまいます。ある時など、南山(現在地は不詳)に立て籠もる賊の頭目・廉康(れん こう)が数を恃みに鮑家荘を完全包囲した時でさえ、毫も怯まず父や兄らと共に槍を奮い、血祭りに上げています。
そこへやって来たのが、本当の父・関羽と再会するべく放浪していた関索でした。
「……勝てばいいんだな?」
さっそく手合わせを申し込んだところ、只者ではないオーラを感じたのか、兄二人が立ちふさがります。
「「待て!妹との結婚は認めんぞ!」」
「どけ雑魚ども!」
関索は鮑礼と鮑義を軽く蹴散らし、父の鮑凱すらも吹き飛ばします。とても「娘さんを僕に下さい!」という態度ではありませんね。そしてお約束通りに鮑三娘も完膚なきまでに打ちのめされ、関索の妻となることを承諾するのでした。
「くっ……好きにするがいい!」
「もちろん、妻にするのだ」
こうして夫婦となった二人は実の父・関羽の元へ赴き、感動の再会を果たすのですが、武勇に優れているはずの父や兄たちはここでフェイドアウト。ちょっともったいない気もしますが、関索TUEEEEのためには、余計なキャラは不要だったのでしょう。
夫亡き後も任務を全うし、葭萌関に散華
それから父・関羽と共に劉備に仕え、荊州(現:湖北省一帯)を守備していた筈の関索ですが、途端に存在感を消してしまいます。後(建安二十五220年)に荊州が陥落して関羽が討たれた際に敵の包囲を脱出したものの負傷し、しばらく身を隠して療養していたそうです。
※この時、逃げ込んだ先が鮑家荘で、怪我の治った関索が鮑三娘を倒して妻にするバージョンの話や、関羽の仇討ち合戦に加わり、父を討った敵将の呂蒙(りょ もう)や陸遜(りく そん)を討ち取ってしまうという荒唐無稽極まる展開もありますが、ストーリー同士の整合性は考えられていないため、細かなツッコミは無用に願います。
5年後の建興三225年、諸葛亮が南蛮の王・孟獲(もう かく)を征伐すると聞いて一念発起した関索は、鮑三娘と一緒に従軍を申し出ますが、二人は別々の任務を命じられてしまいました。
「俺は南蛮へ行くのに、お前は葭萌関(現:四川省北部)の守備か……離れ離れになるのは寂しいな」
妻を連れていけず、未練が残る関索を、鮑三娘は励まします。
「何を仰いますか。あなたが後顧の憂いなく戦えるよう、私はあなたのお背中を守るのです。思い切り奉公して、たんと武功を上げてきて下さいな!」
「……そうだな、きっと戻ってくるよ」
これが死亡フラグとなったようで、関索は数々の武勲を立てながら南蛮征伐の途中で病没してしまいました。いくら活躍しても歴史の本流を大きく変えることは出来ない、オリジナルキャラクターの宿命とも言えるでしょう。
「あなた……」
関索の訃報に接した鮑三娘は、任務を全うすることこそ夫への供養と考え、死ぬまで引退することなく葭萌関を守備し続けたそうです。
一説には蜀が滅亡した炎興元263年、葭萌関を攻めた魏の将軍・龐会(ほう かい。舅・関羽に討たれた龐徳の子)に討ち取られたとも言われていますが、仮に鮑三娘が関索(中平元184年生まれ?)と同じ年なら数えで80歳、10歳年下だったとしても70歳と、もう老婆と言える年齢。本当だったら(いや、フィクションなのですが)凄いですね。
ちなみに、関索には鮑三娘のほかに王桃(おう とう)と王悦(おう えつ)という姉妹が側室におり、彼女たちも共に葭萌関を守ったと言います。
そんな鮑三娘の墓は四川省に伝わっており、現代も多くの方が参詣し、彼女の遺徳を慕っているということです。
※参考文献:
井上泰山ら『花関索伝の研究』汲古書院、1989年
金文京『三国志演義の世界 増補版』東方書店、2010年
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