曹操自慢の腹心
人材コレクターとして名を馳せた曹操には、生涯を通して絶えず優秀な人材が集まっていた。
歴史が伝える範囲ではあるが、実力のある者は経歴、家柄関係なく重用され、曹操に仕えた人間は超実力主義の曹操陣営で出世すべく精一杯尽力した。
仕事が出来る人間からすると純粋に自分の実力を評価してくれる曹操は理想の上司であり、非常に働き甲斐のある職場だったが、当然ながら誰もが曹操と幸せな関係を築いていた訳ではない。
今回は、長年曹操の寵愛を受けながら不本意な死を遂げた荀彧(じゅんいく)の生涯に迫る。
八龍の次男から生まれた王佐の才
荀彧が生まれた荀家は潁川の名門であり、祖父である荀淑の子8人(荀倹・荀緄・荀靖・荀燾・荀汪・荀爽・荀粛・荀旉)は「八龍」と呼ばれるほど優秀で名の知れた存在だった。
八龍の次男、荀緄の子として生まれた荀彧は若くから「王佐の才」と評価され、いずれは君主を補佐する人物になる事を期待されていた。
家柄と才能の両方を持った荀彧は生粋のエリートであり、本来なら約束された出世街道を突き進むはずだったが、乱世が皇帝の側近となる予定だった彼の人生を狂わせる。
董卓が権力を握った189年、これからの世が乱れると感じた荀彧は冀州の袁紹の元に向かう。
董卓を除けば当代屈指の家柄と人材を持っていた袁紹は次代の天下人候補筆頭と呼ぶに相応しく、王佐の才を持つ荀彧が加われば心強い事この上ない話だったが、荀彧は袁紹は天下人の器ではないとあっさり見限ってしまう。
次に荀彧が向かったのは、後に袁紹と死闘を繰り広げる事になる曹操だった。
曹操に仕官すると、曹操は「私の子房だ」と言って荀彧を歓迎する。
楚漢戦争で劉邦が勝者となる手助けをした張良(子房)と比較して貰えるのは荀彧にとって最高の褒め言葉であり、曹操の期待も大きなものだった。
人材コレクターを喜ばせた人脈
曹操を大いに喜ばせた荀彧の加入だが、目下の敵は袁紹ではなく董卓である。
袁紹を盟主に董卓を討つべく結成された反董卓連合は内輪の争いから空中分解してしまい、董卓の暴走はエスカレートする一方だった。
曹操も董卓にどう対応するか頭を悩ませていたが、荀彧は恐怖を前提に支配する董卓のやり方は身内からも敵を作るだけで、董卓の天下も長くはないと冷静に考えていた。
荀彧の予想通り、董卓は呂布に殺され、支配者を失った世は群雄割拠の時代になる。
曹操も天下を狙う群雄の一人ではあったが、董卓死後の最大勢力だった袁紹との差は大きく、曹操が袁紹に勝つためには対策が必要だった。
曹操はどのようにして袁紹に当たるべきか荀彧に相談するが、荀彧は帝(献帝)を自らの勢力に迎え入れる事を進言する。
董卓が献帝を抱えてからやりたい放題やっていたように、帝というのは事実上の支配者になれるこの時代に於けるチートカードであり、帝の擁立は曹操が袁紹に対抗するための絶対条件だった。
権力という面ではほぼ対等になった袁紹と曹操だが、人材という点ではまだまだ大きく劣っている。
次に荀彧は、自身の人脈を活かして曹操に多くの人材を紹介する。
数が多すぎるため荀彧が紹介した面々を逐一列挙する事は出来ないが、郭嘉のように短い期間ながらも大きく貢献した者から司馬懿のように三国志の流れを変える超大物まで幅広く存在した。(年上の甥として有名な荀攸も荀彧の紹介で曹操に仕える事になったのは言うまでもない)
官渡の戦いの陰のMVP
優秀な人材によって着々と強化された曹操陣営は、官渡の戦いで袁紹に勝って天下人への地盤を不動のものにする。
歴史が伝える結果として袁紹が敗れたため、献帝を曹操に擁立された事を敗因に挙げる声が少なくないが、袁紹の名声は既に帝に匹敵、もしくは凌駕するほどであり、権力を得るためのカードである献帝は袁紹には必要なかった。
また、官渡の戦いでは曹操が敗走寸前まで追い詰められていた事も歴史が伝える事実であり、曹操も本気で撤退を考えるほどだった。
曹操からこのまま引くべきか問われた荀彧は曹操に手紙を送り、曹操がいかに袁紹より優れているかアピールするとともに、帝を擁立している曹操に大義名分があると説いて曹操の撤退を思い止まらせる。
荀彧の手紙が送られた直後から袁紹陣営が内部崩壊するのは正史で書かれていても出来すぎたシナリオに見えるが、荀彧が手紙を送らなければ曹操は負けていた訳で、後方支援に徹していたため目立たないが、見えないところで曹操を支え続けた荀彧の貢献度は高く、官渡の戦いの「陰のMVP」と言っても過言ではない活躍だった。
曹操との確執と謎の死
官渡の戦いから2年、袁紹は失意のうちに病死する。
残された息子達に苦戦しながらも、曹操は袁家を滅ぼして名実ともに天下人筆頭になる。
赤壁の戦いで敗れたものの曹操の地位は不動であり、周囲は曹操に公位に就くよう勧める。
事実上のトップである曹操を本格的に国のトップにしようという話に曹操も乗り気でいたが、荀彧はあくまで「自分達は漢の臣であるべき」と説き、曹操と対立する。
212年、曹操との間に微妙な雰囲気が流れる中、荀彧は曹操の孫権討伐に同行する。
その道中に荀彧は病気となり亡くなったというのが正史が伝える荀彧の生涯だが、歴史書に書かれた事が真実とは限らない。
晩年は曹操との関係が悪化していた事もあって早くから荀彧自殺説が囁かれ、創作では曹操から送られた空の器を見て自分は用済みと判断した荀彧が自殺するエピソードもある。
荀彧との関係が悪化していたとはいえ、死に追いやるほど曹操が疎んでいたという説にも疑問だが、嫌った者には容赦のない曹操の性格を考えたら創作でも妙なリアリティを感じてしまう。
個人の考えを述べると、謎の多い最期とはいえ曹操が荀彧を死に追いやったというのはさすがに創作とは思うが、曹操との関係が改善されないままこの世を去るのは荀彧にとっても不本意だったに違いない。(214年にこの世を去った荀攸の話をする度に曹操は涙を流したと書かれているのに対して、荀彧の死後に関するエピソードがほとんど書かれていないのは、曹操も晩年の荀彧に対していい感情を持っていなかった証明である)
荀彧の功績や死の数年前までは良好だった曹操との関係を考えると、幸せな人生の終わり方だったとは言えないが、名門かつ優秀な人材を輩出する家系らしく、荀彧の子孫は魏及び晋でも重用され、偉大な父(祖父)に恥じない功績を残している。
曹操の覇業を支えた王佐の才は、確実に子孫にも受け継がれていた。
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