トップに纏わる呉のジンクス
魏、蜀、呉の三国で最後まで生き残った呉だが、演義で登場する機会が少ない事もあって地味な脇役扱いという印象がある。
魏や蜀と大規模な戦闘を繰り広げているため見せ場がない訳ではなく、唐以前の名将を選んだ武廟六十四将では呉から4人(周瑜、呂蒙、陸遜、陸抗)が選出されているため人物に対する後世の評価も低い訳ではない。(魏「鄧艾、張遼」と蜀「関羽、張飛」はそれぞれ2人ずつなので三国では呉が最多である)
実際は二宮事件やそれに端を発した内乱など呉も呉で大変だった訳だが、呉にはとあるジンクスがあった。
それは「呉のトップが攻めたら殺される」というものである。
ほぼ守勢に専念した孫権の時代が長すぎたため目立たないが、孫堅や孫策は戦争絡みで早死にしている。
今回は、歴史が伝える呉の闇に迫る。
軽率な性格が死を招いた孫堅
呉の事実上の初代である孫堅だが、ゲームでは「堅パパ」と親しまれる一方で、呉か孫堅のファンでなければ彼の生涯と最期を知る者は少ない。
今回は孫堅を主役にしている訳ではないので「堅パパ」の生涯に関しては割愛するが、演義では荊州の劉表を攻めた際に敵の落石の下敷きになる壮絶な最期を遂げている。(いわゆる『横山三国志』ではどうやって用意したのか分からないほどの大量の石に加え、事故どころではないほどの落石の下敷きになりながら何故か肩から上だけ無事という、今思うと謎の描写がされているから覚えている読者は多いと思う)
人気漫画である『横山三国志』の効果もあって孫堅は落石によって命を落としたという認識の人は多いが、これは後漢末期の逸文(いわゆる口伝や伝説)を集めた『英雄記』に書かれた記述を演義及び横山光輝が採用したものである。
正史として伝えられている陳寿の記述によると
初平3(192)年、孫堅は荊州の劉表を攻撃するため袁術から派遣された。
劉表は黄祖を送って迎撃すると、孫堅は黄祖を破って襄陽を囲んだが、単騎で峴山に向かったところを黄祖の兵士に射殺された。
と書かれており、一軍の大将が戦時中に、しかも敵陣のど真ん中で何故単独行動という危険極まりない行為をしたのか理解に悩む死を遂げている。
陳寿の人物評では、反董卓連合に於いて董卓をあと一歩のところまで追い詰めた孫堅の武勇を称賛しつつも「軽率な性格でそれが自らの死を招いた」と書かれており、そういう意味では遅かれ早かれ孫堅が戦場で命を落とす可能性は高かったと言える。
敵を作り暗殺された孫策
孫堅の死によって長男の孫策が後を継くが、知っての通り、孫策も矢傷が元で命を落としている。
孫策の生涯と暗殺の経緯に関しても以前書いた通りだが※、許貢の食客に襲われた一件も孫策が一人でいる時を狙った事件だった。
いつ殺されてもおかしくはない乱世とはいえ、親子揃って単独行動をしている最中に矢で命を落とすのは偶然にしても何かあると思えてならない。
孫堅の軽率な部分が孫策にも受け継がれていたと言ってしまうのは簡単だが、孫策の周辺を調べると新たな説が見えて来る。
先に答えから言うと、孫策のスケジュールを刺客に教えて暗殺の手引きをした者が内部にいるという説だ。
袁術から独立した孫策は、僅か2年で江東を平定して新興勢力として一目置かれる存在になるが、あまりに早すぎる勢力の拡大は滅ぼされた勢力からの恨みを買う事になる。
また、孫策は暗殺される直前に曹操が留守にした許昌を突く準備を進めていたが、それを心配する曹操に対して郭嘉は「孫策には敵が多く、孫堅同様軽率なところがあるから近いうちに暗殺される」と、まるで未来が見えていたかのような発言をして曹操の出陣を後押ししている。
郭嘉が孫策の暗殺に関わっていたという記述は存在しないが、呉は地元の豪族による連立政権であり、常にぶつかり合う配下を纏めつつ政治を行うという非常に難しいタスクが課せられていた。
後の赤壁の戦いの時も孫権陣営の間で戦うか降伏するかで揉めに揉めていたのだから、孫策の頃は更にバラバラだった事は想像に難くない。
勿論、周瑜や張昭のように孫策に絶対の忠誠を誓う忠臣も存在したが、大多数は江東平定時に加わった新参であり、彼らにとって最優先は孫策への忠誠よりも自らの保身と安全だった。
持ち前の明るい性格によって孫策を慕う者も多かったが、不必要な戦闘で自らに被害が及ぶ可能性があるとなったら話は変わって来る。
しかも、呉には自分の主を滅ぼした敵として孫策を快く思わない者も存在したので、内部から裏切り者が現れてもおかしくないという訳だ。
孫権が長生き出来た理由?
父と兄が戦争絡みかつ軽率な行動で非業の死を遂げた事もあり、孫権は呉の統治に専念して、自ら軍を率いて戦う事は数えるほどしかなかった。
その割には無防備な姿で虎狩りに出掛けて虎に襲われるという一族の血は争えない行動をしているのだが、それははさておき、孫権が長生き出来たのは「配下を纏める事に専念したから」という説は非常に説得力がある。
惜しむらくは、歳を重ねるにつれて長年連れ添った家臣と統率力を失い、二宮事件で呉を大きく弱体化させてしまった事だろうか。
孫権死後に身を滅ぼした諸葛恪
孫策を反面教師にして孫権も存命中は必要以上の戦闘を避けて来たが、孫権の死後事実上の呉のトップとなった諸葛恪は、合肥攻めを失敗した後に殺されている。
諸葛恪に関しては本人の性格的な問題も大きかったが、周囲の反対を無視して出陣した挙げ句大敗を喫したら待っているのは孫策と同じ末路だ。
諸葛恪も敵の多い人間だったので、遠征の失敗がなくても殺されていた可能性は高いが、孫策と諸葛恪の失敗からその後も呉で積極的に攻めようとする者は現れなかった。
実例が少ないため根拠としては乏しいように見えるが、家臣を怒らせるような下手な動きは出来ないと君主を牽制する意味では十分であり、二宮事件の後遺症に苦しみながらも必要以上の戦闘を行わず、戦力を削らなかった事が呉が最後まで生き残る理由の一つになった。
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