諸葛孔明 といえば、中国の歴史書『三国志』に登場する天才軍師である。
『三国志』は、現代日本では映画やアニメ、ゲームなどの様々なメディアで取り上げられているので、孔明という名前くらいは聞いたことがあるのではないだろうか。近年ではパリピ公明でまた注目を集めている。
おそらく私たちのイメージは「孔明はのちに蜀の王となる劉備を支えた天才軍師として、軍事や政治のすべての面においてその力を発揮した人物」といったところだろう。
しかし詳しく調べてみると『三国志』にはいくつかの種類があり、我々がよく知っている孔明のイメージは中国の明の時代、日本でいえば室町時代の頃に記された『三国志演義』という時代小説によって創られたようである。
では陳寿が著した正史三国志では、孔明はどのように描かれているのだろうか?
『正史三国志』と『三国志演義』に書かれた諸葛孔明像について調べてみよう。
正史三国志の諸葛孔明
『三国志演義』では、孔明は「諸葛亮」という名前で登場している。
裕福な家に生まれ学問ばかりしており、顔は色白く唇は赤みがかっており、頭巾をかぶり羽扇を持ち、身長は185cmほどあったという。
一方『正史三国志』では「身長185cm」「素性のわからぬ者」と書かれており、かなり相違がみられる。
少なくとも高身長だったことは間違いなさそうである。
100万の曹操軍を破った赤壁の戦いについては、『三国志演義』では「孔明の奇策をもって曹操軍を撃退した」とあり、『正史三国志』では「赤壁における功績はすべて周瑜のもの」となっており、
「孔明は劉備と孫権との同盟の使者として呉に行った」
としか書かれていない。
曹操軍が撤退した原因も火計によるものではなく、曹操陣営内に疫病が蔓延し、とても戦えるような状態ではなくなり撤退したようである。
極めつけは、『正史三国志』の作者である「陳寿」の孔明に対する評価である。
劉備と孫権の同盟を成立させたことでからもわかるように、政治家としての手腕は高く評価しているものの、軍事においては、
「奇計を用いず思ったような成果は出せなかった」
と、手厳しい評価をしている。
つまり孔明は政治家としては天才的な力を発揮していたものの、軍事に関してはイメージほど卓越した才能を持っていたわけではなかったようである。
日本の戦国武将で例えるなら、石田三成を想起させる。
本当の諸葛孔明の姿とは?
諸葛孔明の本当の姿とは、どのようなものだったのだろうか。
孔明は蜀の丞相として贅沢を一切せず、劉備が存命のうちは主に内政、外交面において蜀を支えていた。
しかし蜀は僻地にあるため深刻な人材不足に苦しみ、劉備の死後は軍事業務も兼務しなければならなくなった。
孔明はあえて強国の魏を攻め続けることで守りとし、なんとか蜀の地を守り切ったというのが真相に近いようである。
戦争でほぼ負けなしだった魏の司馬懿相手にあれだけ戦えたのだから決して戦が弱いわけではないが、戦い方は正攻法が中心で戦術というより戦略に秀でていた印象である。
その後、234年54歳で寿命が尽き、この世を去っている。
孔明の死後、蜀は汚職など政治の腐敗が顕著になり、やがて滅亡へと突き進んでいく。
このことからも孔明の政治家としての手腕の凄さがわかる。
孔明が作った意外なもの
孔明の意外な一面にも触れておこう。
孔明は様々なものを発明しており「三国時代の発明王」としての顔があった。
代表的なものを3つ紹介しよう。
「肉まん」
蜀軍が南方の蛮族を攻めたとき、この地域では祭壇に人の生首を置き祈祷するという習慣が当たり前に行われていたという。
それを見た孔明は、
「こんなことをするのは残酷だ」
と、その儀式を禁止し、代わりに豚や羊の肉を小麦粉で包み、それを供えることにしたのである。
これが現在の肉まんの原型となったという。
「紙芝居」
最近はあまり見られなくなったが、「絵本」としてそのルーツは受け継がれている。
孔明が蛮族を攻めたとき、蛮族の民は満足な教育を受けておらず、字を読むことができなかった。
そこで孔明は、絵を描いてそれを蛮族の民たちの教育に用いたという。
「天灯」(てんとう)
天灯とは、竹の骨組みに紙を貼ってそこに火を灯したもので、中国やタイなどの祭で使用されている。
孔明が司馬懿に包囲された折、近くの軍に援軍を求めるため、この天灯を大量に作り通信手段として使用したのが始まりと伝えられている。
最後に
諸葛孔明は、天才軍師ではなかったものの「天才政治家」ならびに「天才発明家」として三国時代を駆け抜けていったというイメージができたのではないだろうか。
正史としての孔明は領土においては具体的な戦果をあげることはできなかったが、当時の魏との国力差を考えればどのような天才軍師であったとしても逆転は難しく、守ることだけでも大変なことだったのではないかと推測する。
たとえ天才軍師ではなくとも、それに準ずる働きをしたのではないだろうか。
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