実は劉備に仕えていた魏の名臣
劉備の元を離れ曹操に仕えた人物といえば真っ先に浮かぶのが徐庶だが、魏の重臣の中で他にも劉備に仕えていた人物がいる。
それが、陳羣(ちんぐん)である。
魏の建国から隋の時代まで続いた「九品官人法(きゅうひんかんじんほう)」を制定した事で知られる魏の名臣だが、最初の主君が実は劉備である事は意外と知られていない。
中国の歴史に残る政治家である陳羣は、何故劉備から離れたのか。
今回は、劉備と曹操の両方に仕えた名臣、陳羣を紹介する。(九品官人法に関しては別の記事で紹介するため詳細はここでは省く)
幼少期から将来を嘱望された逸材
潁川郡許昌県に生まれた陳羣は、祖父の陳寔(ちんしょく)、父の陳紀、叔父の陳諶(ちんしん)といった地元の名士に囲まれて育ち、特に陳寔は、孫(陳羣)は将来この家を盛んにすると特に高く評価していた。(陳寔の評価が正しかった事は陳羣が現代に伝わる形で証明している)
当時の中国は名家に生まれた時点でほぼ人生勝ち組だったが、名家同士の繋がりによって陳紀の友人だった孔融とも関わりを持つ。
「建安の七子」と呼ばれた後漢末期の名士の一人だった孔融は陳羣と知り合うとその才能を高く評価したため、陳羣の名前は有名になった。
劉備時代
194年、豫州刺史となった劉備は陳羣を別駕として迎え入れる。
残念ながら劉備と陳羣の詳細な出会いは書かれていないが、劉備は陳紀と面識があったようで、その流れで陳羣とも早い段階で出会っていた可能性がある。(これは筆者の個人的な考察であり、陳羣の伝には書かれていない)
同年、徐州の陶謙が病死すると劉備は陶謙に譲られる形で徐州を領有する事になる。陳羣は徐州が袁術と呂布(更には曹操)に囲まれた地である危険性を指摘して劉備の徐州統治に反対するが、劉備は陳羣の言葉に従う事なく陶謙から徐州を譲り受ける。
陳羣の不安は的中し、陶謙の死から僅か2年後の196年に袁術が徐州に攻めて来る。
劉備は袁術を迎え撃つが、その隙を狙った呂布に徐州を奪われてしまい、劉備は陳羣の言葉を聞き入れなかった事を後悔したという。
その陳羣はこの時期には劉備の元から離れており、茂才(官吏登用試験の科目の一つ)によって推挙され、柘県県令に任命されたが、その話を断って陳紀とともに徐州へ避難した。(陳羣を推挙したのは劉備だったという説もあり、自分の話を聞かずに呂布に敗れたから失望して離れたのではなく、劉備が送り出そうとしてくれていたが高齢だった父親のため断ったという解釈も出来る)
正史にはまともな記述が書かれていないためどのタイミングで陳羣が劉備の元から離れたのか不明であり、劉備に仕えていた事実こそあるが、徐州統治に反対した以外の会話は記録に残っていない。(考察によっては実はまだ劉備と関係があった、劉備が呂布に敗れた後は呂布に仕えていたなど様々な説があるが、確たる証拠は今日まで伝えられていない)
曹操との出会い
劉備と曹操が呂布を滅ぼすと、陳羣は曹操に登用され、歴史に残る名臣としてのキャリアを正式に歩み始める。(陳羣の登用には同郷の名士である荀彧の紹介があったという)
ここからは曹操に仕えてからの陳羣の活躍を書きたいところだが、残念ながら正史に於ける陳羣の記述は乏しく、九品官人法以外のエピソードは多く残されていない。
九品官人法の実績が大きいため魏の人物の中でも陳羣は有名な方だが、人柄を表すエピソードがない訳ではないからいくつか紹介する。
呂布の死後、王模と周逵という人物が推薦され、曹操は彼らを採用した。
陳羣は、王模と周逵は道徳を汚す人物だから失敗すると主張したが、曹操は陳羣の話を真剣に聞かなかった。
結局、王模も周逵も悪事を行なったとの理由で処刑され、曹操は陳羣に自身の過ちを認め謝罪した。
その一方で、陳羣が推薦した陳矯と戴乾を見ると、陳矯は魏の高官に昇進し、戴乾も呉が叛いた時に国に殉じた(書き方から察するに戦死したと思われる)ため、人々は陳羣の人物鑑定眼を高く評価した。
陳羣とともに魏が失ったもの
前述のエピソードで「道徳」という言葉を使っていたように、陳羣は道徳(モラル)にうるさい人物であり、郭嘉の態度の悪さは特に許せなかった。
これは郭嘉の時にも書いたが、陳羣は郭嘉の処分を求めて曹操に訴えている。
曹操は「彼らしい」と一言言うだけで郭嘉を罰する事はせず、陳羣の公正さを重んじる性格と態度にも満足していた。
このエピソードからも陳羣がいい意味でも悪い意味でも「うるさい人物」だった事が分かるが、物事に対して常に公正であり、国家を第一に考えていた。(また、自身の手柄は主君に譲っていたため陳羣の功績は当時ほとんど知られていなかった)
その姿勢は皇帝に対しても同じであり、不必要なまでに宮殿を建造しようとした曹叡の無駄遣いを諌め、工事の計画を縮小させている。
陳羣の存命中はまだ曹叡をコントロール出来ていたが、陳羣の死後、曹叡は更なる宮殿の建造を行い、魏の財政に大きなダメージを与えた。
奇しくも、陳羣と同じ236年に呉では張昭がこの世を去り、これを境に孫権が老害皇帝へと成り下がる。
魏と呉で同時期に皇帝が暴走を始めたところを見ると、口うるさい家臣として陳羣(張昭)の果たしていた役割は想像以上に大きいものだった。
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