正史にも演義にも登場しない軍神の娘
筆者が「彼女」の存在を知ったのはいつだろうか。
正確な時期は覚えていないが、いつからか「関銀屏 : かんぎんへい」という名前を見掛けるようになった。
その名字の通り関羽の娘という設定の人物で、コーエーテクモゲームスの『三國志』及び『三國無双』シリーズでは、関羽の髭に負けない美しい黒髪ポニーテールをトレードマークに活躍する。
これまでいそうでいなかった関羽の娘というキャラもあり、関羽ファンとして気になる存在ではあるが、正史にも演義にも登場しない関銀屏とは何者だろうか。
今回は、ゲームによって大ブレイクを果たした関銀屏を紹介する。
関銀屏の元ネタ
【鈴木P】速報です!
関銀屏がアームレスリング世界大会・無差別級で、レフトハンド・ライトハンドともに優勝しました!#真・三國無双8 pic.twitter.com/83YQzfebCq— 真・三國無双 公式 (@s_sangokumusou) March 31, 2018
『三國無双』シリーズ公式Twitterのエイプリルフールネタにも登場するなど、公式からも愛されている関銀屏だが、前述の通り「関銀屏」という名前は正史にも演義にも書かれていない。
答えから言うと、劉禅に嫁いだ張飛の娘達をモデルにした「星彩」と同じく、関羽が呉との縁談を断ったとされる関羽の娘をモデルに作られた99%架空の人物である。(事実である1%は関羽の娘が実在したところだけである)
蜀の皇后になった姉妹を一人の人間にした、完全に無双オリジナルキャラクターである星彩との違いは、関銀屏という人物が登場する、いわば元ネタが存在する事だ。
民間伝承によって生まれた伝説の人物であるため元ネタの出典によって多少の違いはあるが、まずは中国湖北省群衆藝術館から1986年に発売された『三國外傳』(邦題『三国志外伝―民間説話にみる素顔の英雄たち』)に描かれた関銀屏のストーリーを紹介する。
伝説が伝える関銀屏
劉備が劉表の元に身を寄せていた頃、関羽に娘が生まれ、特にかわいがっていた張飛から「関銀屏」と名付けられた。
関羽は、呂布と戦った時にトレードマークの冠(通称触覚)から落ちた真珠をお守りとして持っていたが、男子で宝物に興味がなさそうな張苞、関興、劉禅には勿体ないという事で関銀屏に贈る事にした。(劉禅の生年は207年なので関銀屏が生まれたとされる204年頃には劉禅はまだ生まれていないはずだが、伝説なので気にしてはならない)
伝説らしく関銀屏は美しい娘に成長すると、評判を聞き付けた孫権から縁談の話がやって来る。
呉との関係強化のため、本来なら受ける(断るにしてもクッション役として劉備を通す)べき話だったが、関羽は「犬の子に虎の娘はやれぬ」と断ってしまう。
蜀と呉の間には単刀赴会のゴタゴタなど荊州に関する火種が燻っていたが、関羽の発言に激怒した孫権は関羽が留守にしていた荊州を襲い、背後を突かれた関羽は命を落とす。
関銀屏は劉備に援軍を呼ぶ名目で一足先に益州へと逃がされ無事だったが、関羽、関平、周倉の死に涙を流す日々を送る。
張飛から衣類が贈られても関銀屏は受け取ろうとせず「綺麗な装飾などいりません、父の仇を討ちたいのです」と孫権への復讐を誓い、趙雲に弟子入りして武芸の腕を上げていった。
225年、雲南で反乱が起きると、鎮圧に向かう蜀軍には関銀屏の姿があった。
関銀屏の中で一番の目標は孫権への復讐だったが「自らの私怨である孫権への復讐よりも、国の一大事である反乱の鎮圧が優先」と、自分の感情を優先して身を滅ぼした正史の関羽ならまず言わないであろう「大人の発言」で従軍する。
諸葛亮は李恢をサポート役に付けると、息子の李蔚(もしくは李遺、架空の人物)も優秀な人物であるとの理由で関銀屏と結婚させる。
関銀屏は李恢親子とともに戦果を挙げると、その後は義父となった李恢の故郷である兪元で暮らし、生涯を終えた。
荊州に戻り、孫権に復讐する夢は叶わなかったが、金蓮山(雲南省玉渓県)に登っては関羽と過ごした荊州の方角を向いて懐かしんでいたという。
実在する関銀屏の墓
以上が、関銀屏の伝説である。
後の歴史で蜀と呉が戦っていれば話は変わっていたのだろうが、伝説にifを求めすぎるのは酷である。(趙雲仕込みの武勇を見せる事もなく、具体的に活躍したシーンも全く描かれていない、雑な打ち切り作品のような結末だが、父親である関羽も正史で活躍した描写はほとんどない)
地元の住民に農業、商業(教養)、武芸を教えていた関銀屏を人々は「関三小姐(かんさんしょうしゃ)」と呼んで慕い、死後は夫の李蔚と、関羽の形見である真珠ともに埋葬された事になっている。(演義によって「落鳳坡」という地が作られ、そこに墓を建てられた龐統を思い出した)
そして、関銀屏が関羽に思いを馳せていた金蓮山には「関三小姐墓」という史跡があり、少なくとも1910年には
「漢忠臣興亭侯子李蔚、寿亭侯女関氏三姐之墓」
と、刻まれた墓碑の存在が確認されている。
関銀屏という名前が生まれたのは1986年だが、関羽の娘が活躍する民間伝承は地元でかなり昔から存在した証拠であり、今でも地元の人々は関銀屏の墓参りに訪れているそうだ。
日本で大ブレイク
ここで冒頭の話に戻るが、関銀屏が日本にやって来た(ゲームに登場してファンに認知されるようになった)時期はいつだろうか。
少なくとも2010年より先に関銀屏という名前を見た記憶はあるのだが、その記憶は正解で、2006年のほぼ同時期に『三國志11』(3月17日発売)と、アーケードゲームの『三国志大戦2』(5月24日稼働)で登場したのが日本のファンとの出会いである。
『三國志11』では、人材難の蜀の中でも高い武力で活躍してくれる貴重な存在だが、関銀屏の名前を日本に売ったのは『三国志大戦』の方だった。
関銀屏「負けた子は一日あたしの犬だからねっ!」
趙氏「ふ、不覚……!」
劉備「こ、これが女の戦いってやつか……!?」#お正月#戌年#三国志大戦 pic.twitter.com/GghVQNQUOa— セガ大戦シリーズ広報 (@taisen_ko_ho) January 1, 2018
現在は色白になっているが、初期の「褐色ツインテール」という刺さる人には刺さる設定を盛り込んだデザインはユーザーからかなりの人気を誇っていたようで、後に『三國無双』シリーズでブレイクする下地は既に出来ていた。
2013年2月28日に発売された『真・三國無双7』では
美少女、その細腕に怪力を宿し
https://www.gamecity.ne.jp/smusou7_original/window/kanginpei.html
という触れ込みで初登場し、自身を「非力」と言いながら、記念すべきシリーズデビューとなる「樊城の戦い」のムービーでは登場早々座っていた城壁のブロックを片手で引き抜く力業を披露してくれる。
ゲームなので細かいところは突っ込まないが、関羽と喧嘩しても勝てそうなその怪力ぶりに、敗北時の「腕立て1000回」といった衝撃的な発言の数々は関銀屏の強烈な個性となり、大人気となった。
公式が行った人気投票では堂々の6位(女性キャラでは1位)となり、
真・三国無双シリーズ キャラクター人気発表
https://www.gamecity.ne.jp/smusou/vote/
兄である関平、関興、関索、そして関羽まで食ってしまう人気キャラクターとなる大ブレイクを果たした。(個人的には推し武将である関羽が51位、他の兄弟も軒並み下位と関銀屏以外見事に撃沈したのがショックだった)
日本と中国では入り口がゲームと民間伝承と若干違うので、関銀屏に対する「愛されている」という言葉の意味合いはやや異なるが、架空の人物である関銀屏が、生まれてから40年も経たないうちに日本で不動の人気を得たのは快挙といっていいだろう。
勿論、そのきっかけとなった『三国志大戦』『三國志』『三國無双』の存在と、功績も忘れてはならない。
参考文献 : 三国志外伝―民間説話にみる素顔の英雄たち
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