語り継がれる名軍師 田豊
西暦200年に起こった曹操vs袁紹の官渡の戦いは、三国志前半における最大の山場であろう。
この官渡の戦いは、何か一つでも袁紹が正しい選択をしていれば、袁紹軍が順当に勝利していたはずである。
曹操からすれば正にギリギリの戦いであったが、袁紹の元で才能を活かせなかった軍師として沮授(そじゅ)とともに語り継がれているのが田豊(でんほう)だ。
今回は、田豊の生涯を辿る。
田豊が袁紹に仕えるまで
ゲームの『三國志』シリーズでは、沮授とともに優秀なステータスが与えられている事もあり、田豊の知名度は高い。
その一方で正史の記述は少なく、謎の多い人物である。
数少ない記述から田豊の足跡を辿ると、早くから茂才(官僚登用試験)に推挙されるなど、優秀な人物だった事が伺える。
具体的な年代は書かれていないが、田豊が仕えていた頃の宮中は既に宦官が支配していた。
腐敗した政治に嫌気が差した田豊は、辞職して故郷に帰ってしまった。
次に田豊は冀州牧の韓馥(かんふく)に仕えるが、後に自身の死を招く事にもなる強情で真面目すぎる性格が嫌われ、関係は良くなかった。
一方の韓馥も有能な君主だったとは言い難く、田豊、沮授、審配、張郃といった後に袁紹軍の主力となる優秀な人材を抱えながらも、袁紹に領地を奪われた後に自殺している。(余談だが、韓馥配下の耿武と閔純は袁紹の暗殺を画策していたが、それを察知した袁紹の指示で田豊に殺されている)
袁紹との対立の日々
袁紹は元韓馥配下の面々を歓迎し、田豊も冀州別駕(太守の副官)として厚遇されたが、袁紹が田豊の進言を聞く事はなかった。
ここからは正史に残る数少ない田豊の記述を辿る。
192年に冀州の支配権を懸けて公孫瓚と袁紹が界橋で戦った時、元韓馥配下の麹義(きくぎ)の活躍によって袁紹軍は勝利した。しかしこの勝利に気を良くした袁紹軍は、油断から公孫瓚軍に取り囲まれてしまった。
田豊は袁紹を物陰に隠そうとするが、袁紹は大将である自身が物陰に隠れる事をよしとせず、兜を叩き着けて拒否した。
最終的に麹義が救出に来たため、袁紹も田豊も絶体絶命の危機を脱する事が出来たが、公孫瓚を滅ぼしてからも袁紹の田豊に対する扱いは変わらなかった。
曹操が献帝を迎え入れると、田豊は許昌を攻めて献帝を奪う策を進言したが、やはり袁紹から却下されてしまった。
官渡の戦い
200年、曹操は徐州の劉備を攻めようとしていたが、袁紹に許昌を突かれないか心配していた。
曹操は軍師の郭嘉に相談するが、郭嘉は「袁紹は優柔不断で大事な判断が出来ないので、劉備を攻めるべきです」と袁紹が攻めてこない事を読み、劉備攻めを進言する。
一方、袁紹陣営でも曹操を攻めるべきか否かの議論が行われたが、田豊は「またとない好機ですぞ」と許昌攻めを強く主張していた。
ここで袁紹が息子の病気を理由に却下したのは有名な話だが、田豊は地面を杖で叩きながら悔しがったという。
公孫瓚との戦いで軍が疲弊していたため袁紹が無理矢理理由を作ったという説もあるが、袁紹にとってこの判断が袁家の寿命を縮める事になるとは夢にも思わなかっただろう。
結局、郭嘉の読み通り袁紹は兵を出さなかったため、曹操は劉備を攻めて敗走させるとともに、一時的だが関羽を配下にする大勝利を収める。
袁紹が曹操と雌雄を決する決断をした時には曹操は既に許昌に戻っており、田豊はこれまでの交戦論から一転し、沮授とともに持久戦を主張した。
「圧倒的な戦力差があるからこそ、徐々に曹操軍を疲弊させるべき」という田豊と沮授に対して、郭図と審配は同じく戦力差がある事を根拠に、即時決着を主張した。
そして袁紹は以前とは違う田豊の主張に怒り、田豊を投獄してしまったのである。
その後、官渡の戦いは袁紹軍の大逆転負けとなったが、曹操は田豊が従軍していない事を知って勝利を確信し、その一方で「田豊がいたら勝敗は逆になっていた」とも語っている。
袁紹の敗因とは?
官渡の戦いにおける袁紹の敗因を探すといくつも出てくるのだが、曹操を撤退寸前まで追い詰め、勝利目前のところまでいったのも揺るがない事実である。
例えば、コーエーテクモゲームス(当時コーエー)が出版していた『爆笑三國志』シリーズの影響で「出ると負け軍師」とネタにされる郭図だが、本当に袁紹陣営が無能ばかりなら戦況を9割方勝利まで進める事も出来なかったわけで、郭図の「曹操と短期決戦を行うべき」という主張も必ずしも間違いだったとは言いきれない。
ターニングポイントである許攸の裏切りに加え、逢紀の讒言による田豊の処刑、そして袁紹死後の後継者争いを考えると、袁紹が配下をまとめられなかった事が官渡における大きな敗因であろう。
それ以上に、最後の最後まで撤退せず、配下をまとめあげた曹操を称賛すべきだろう。
田豊の寿命を縮めたのは誰?
9割勝っていたところでまさかの敗北を喫した袁紹は、田豊の言う事を聞かなかった事を後悔していたが、三国志演義では田豊への処遇を中心に袁紹陣営の脆さが描かれている。
田豊に会わせる顔がないと嘆く袁紹に対して、かねてから田豊と仲が悪かった逢紀が「田豊は自分の言葉を聞かなかったために負けたと喜んでいます」と讒言したため、袁紹は田豊の処刑を決意してしまう。
官渡の戦いの敗北を獄中の田豊に伝えた者は「これで田豊殿は許され重用される」と喜んでいたが、田豊は「曹操に勝っていれば私は許されただろうが、負けたからには主公(袁紹)は私を殺すだろう」と自身の死を予言し、その通りの最期を迎えている。
ここで書いた発言と会話は、あくまで演義のストーリーなので史実というわけではないが、田豊の処刑に逢紀が関わっていたのは事実のようだ。
正史の記述が少ないため「田豊と袁紹の関係が悪かった、不遇な扱いを受けていた」と単純に決める事は出来ないのだが、性格が合わない配下同士をも上手く使った曹操の方が田豊とは相性が良く、田豊は曹操軍にいれば更なる活躍ができたかもしれない。
いずれにせよ頑固で敵を作りやすい性格であった以上、不幸な最期の原因は自身にあるが、田豊は曹操が恐れるほどの才能を持ったことは事実である。
参考 : 『正史三国志』『三国志演義』
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