動揺する清朝

画像 : 1900年の紫禁城、景山からの神武門の眺め public domain
1908年の北京。紫禁城の奥で、清朝という巨大な帝国は静かに揺れていた。
日清戦争(1894〜1895年)、義和団事件(1900年)を経て、清朝の国力は著しく衰えていた。
※義和団事件とは、清末の民間結社「義和団」が排外運動を展開し、列強公使館を包囲したことを発端に、清朝と列強八カ国との武力衝突へ発展した事件。
とりわけ義和団事件では、北京が列強軍に占領され、翌1901年に締結された北京議定書によって巨額の賠償金と駐兵権を認めざるを得なくなった。列強の圧力は日増しに強まり、国家主権そのものが揺らいでいたのである。
清朝は1906年に「立憲準備」を宣言し、近代的制度への転換を図ろうとしていたが、体制の基盤はすでに大きく軋んでいた。
そんな当時、頂点に立っていたのが西太后(慈禧太后)であった。

画像 : 西太后(慈禧太后)晩年の真影 public domain
1852年、咸豊帝(清朝第9代皇帝)の妃として入内した彼女は、1861年の咸豊帝の崩御後は、幼帝・同治帝(第10代)を補佐する形で政権中枢に立った。
さらに同治帝の死後は、甥にあたる光緒帝(こうしょてい 第11代)を即位させ、二代にわたり実権を掌握した。
名目上の皇帝が存在しながら、最終的な決定権は常に彼女の手にあったと言ってよいだろう。
一方、皇帝である光緒帝は、戊戌の変法(ぼじゅつのへんぽう)に失敗して以降、紫禁城内の一角に移され、幽閉同然の生活を送っていた。
※戊戌の変法とは、1898年に光緒帝が主導した近代化改革。教育制度や官制、軍制の刷新を急速に進めたが、既得権益を脅かされる保守派勢力が反発し、同年9月21日、西太后がクーデター(戊戌の政変)を断行して実権を掌握した。改革は103日で停止され「百日維新」とも呼ばれる。
光緒帝は形式上は国家元首でありながら、政治的な自由はほとんどなく実権から遠ざけられた存在であった。
そして1908年11月14日、その光緒帝が急死する。
さらに翌日の15日、なんと西太后も崩御してしまう。
清朝の最高権力者と皇帝が、相次いで世を去ったのである。
この異常な出来事は清朝にさらなる衝撃を与え、ここから長く続く「死因」をめぐる疑惑が生まれることとなる。
若き皇帝の急死の謎

画像 : 光緒帝の半身像の素描 public domain
光緒帝は1908年11月14日夕刻ごろ、紫禁城内で崩御した。
発見された時には、すでに息絶えていたとされる。享年38。
高齢で病床にあった西太后よりも先に、若き皇帝が世を去ったという事実は、当時の宮廷に強い緊張を走らせた。
先述のとおり、光緒帝は1898年の戊戌の変法以降、長く幽閉状態に置かれていた。持病として結核や心疾患を抱えていたとの記録も残っており、公的には衰弱死とされている。
しかし、後年に伝えられた証言は穏やかではない。
死の直前に激しい腹痛に苦しみ、床の上で身をよじらせていたという回想が残っているのである。
顔色が黒ずみ、急激に衰弱していったとも伝えられる。
これらの描写は、単なる慢性病の悪化という説明だけでは割り切れない印象を与える。
さらに最も注目されるのは、その「タイミング」である。
翌15日に西太后が崩御したことで、清朝の最高権力者と皇帝が、わずか1日の差で相次いで死亡したことになる。
この偶然は当時から疑念を呼び、やがて「何かがあったのではないか」という噂へと変わっていった。
100年後の科学検証

画像 : 清太后と光緒帝が寧寿宮に安置された様子(1919年) Unaccredited Public domain
光緒帝の死からちょうど100年後の2008年、長く続いてきた死因論争に決定的な材料が提示された。
中国の研究チームが、保存されていた光緒帝の毛髪や骨などを科学的に分析したのである。
その結果、毛髪から通常値をはるかに上回るヒ素が検出された。しかも、その濃度は慢性的な摂取ではなく、短期間に大量摂取された可能性を示すものであり、自然死説を大きく揺るがす発見となった。
ヒ素は当時も入手可能な毒物であり、急性中毒では激しい腹痛、嘔吐、全身衰弱などを引き起こす。
後年に伝えられた「死の直前に苦しんだ」という証言とも符合する部分があるとして、この分析結果は大きな反響を呼んだ。
もっともヒ素が検出されたという事実と、誰がそれを投与したのかという問題は別である。
こうして、なぜ光緒帝はヒ素を摂取したのか、誰かが密かに暗殺したのではないか、といったさまざまな説が浮上することとなった。
黒幕は誰なのか?

画像 : 西太后(慈禧太后、1835~1908年)1902年撮影 Public domain
まず、疑惑の中心に置かれたのは西太后であった。
自らが重病に伏していた1908年秋、もし光緒帝が生き延びて復権すれば、戊戌変法以来の権力関係は大きく組み替えられる可能性があった。自分の死後、政治的主導権が皇帝側に戻ることを阻むため、先手を打ったのではないかという推測である。
死亡時期がわずか1日違いであった点も、西太后がいよいよ崩御寸前となったことで焦って実行指示した、またはそういう命令を事前に下しており周りが実行したとも考えられる。
しかし、西太后の単独犯行という構図には収まらない点も多い。
当時、新建陸軍を率いて台頭していた袁世凱(えんせいがい)は、戊戌変法で光緒帝を裏切った人物である。もし光緒帝が復権すれば、自身の立場が危うくなる可能性があった。
そうした事情から、袁世凱関与説も根強く語られてきた。
また、西太后の側近として長年仕えた宦官・李蓮英(りれんえい)の関与を唱える回想録も存在し、宮廷内部の権力抗争という観点から事件を捉える説も根強い。
いずれの仮説も動機の説明は可能であるが、決定的証拠には至っていない。確実に言えるのは、1908年11月、清朝の最高権力中枢で重大な政治的転換が起きたという事実である。
光緒帝の急死と西太后の翌日の崩御は、清朝の命運を一気に定めた転換点となった。しかし、その舞台裏の全貌は、いまなお完全には解き明かされていないのである。
参考 :
『清史稿』卷23(本紀)『清史稿』卷214(孝欽顯皇后伝)
China’s reformist second-to-last emperor was murdered 他
文 / 草の実堂編集部
























この記事へのコメントはありません。