大きな戦乱のない安定した政権を維持した江戸幕府
1603(慶長8)年の開府以来、260年以上続いた江戸幕府。武家政権としては、稀にみる安定した政権と評価できるでしょう。
それは、初代将軍徳川家康から3代将軍徳川家光の間に行われた武断政治により、徹底的に幕府運営に障害となる勢力を排除したことが大きかったことは言うまでもありません。
「武家諸法度」により譜代・外様を問わずに諸藩を取り締まり、「禁中並公家諸法度」により朝廷を統制。幕府を脅かすような勢力をほぼ完璧に抑え込んだのです。家康・秀忠父子により行われたこの政策により、平安時代から続いた不安定な政局が終焉し、約700年ぶりに長期安定政権が確立したのです。
そんな江戸幕府も、5代将軍綱吉の時代から財政難に陥ります。
財政逼迫はその後も続き、8代将軍吉宗による享保の改革・老中田沼意次の改革・老中松平定信の寛政の改革・老中水野忠邦の天保の改革など、幕末に至るまで様々な立て直しが行われました。
しかし、1853(嘉永6年)年におきたペリー来航をきっかけに時代が幕末に突入すると、尊王攘夷運動と倒幕運動が激しさを増していきます。
この幕末という時代は、江戸幕府が基本とした幕藩体制が崩壊を迎えた時代ともいえます。
それは、将軍ー大名・大名ー家臣という、儒学による「忠孝」の考えが破綻し、戦国時代のような下剋上状態に戻ったともいえる時代だったのです。そうなると、将軍・大名といえどもその地位は安定とはいえません。
いや、地位どころか命さえも危ぶまれる場面があったのです。
名君とうたわれた長州藩主毛利敬親も下剋上を恐れた
毛利敬親は、長州藩第13代藩主です。有能な家臣を登用し、西洋式軍制を採用するなどして、混乱する幕末期を乗り切り、長州藩を明治維新の原動力にした名君として知られます。
そんな敬親についたあだ名は「そうせい候」でした。幕末の長州藩は、幕府への恭順派・討幕派に分かれ、藩内で激しく争っており、敬親は、そのどちらにも「そうせい」と応じていたとされます。
しかし、これには事情がありました。当時の長州藩では、たとえ藩主といえども、うかりつなことを言ったら最後、家臣に殺されかねない状況にあったのです。
明治になってから敬親自身が「あの当時においては、ああでもしなければ殺されていたかもしれない」と語っています。事実、1865(慶応元年)年には、高杉晋作らが保守派・恭順派を一掃するクーデターが起きています。
名君と名高い敬親であってしても、命の危機を感じるほどであったのです。
江戸幕府最後の将軍徳川慶喜が語った命の危機とは
家臣によって命を奪われる危機を感じたのは、毛利敬親だけでなりません。江戸幕府の頂点に立つ徳川最後の将軍・15代徳川慶喜も同じ危機を感じていたのです。
何が何でも幕府を倒し、慶喜の首が欲しい薩長は、江戸での暴動などあらゆる手を使い旧幕府を挑発します。そして、ついに1868(慶應4)年1月3日、鳥羽伏見の戦いが勃発します。この戦いにおいて慶喜は、大阪城に滞在し戦いの指揮を執りました。
鳥羽伏見の戦いは、緒戦で旧幕府軍が敗れ、大阪城に向かい敗走します。さらに大阪城には、江戸から軍艦で運ばれてきた兵が宴援兵として続々集まってきました。実はこの時に、慶喜は命の危険を感じていたのです。
それは、前線で敗れたとはいえ、大阪城には後装式小銃など最新鋭の洋式軍備を持ち、その調練を受けた歩兵隊など旧幕府軍の主力兵力が温存していました。さらに大阪湾には、開陽をはじめとする旧幕府海軍も臨戦態勢を維持しつつ、陸に向かい睨みを利かせていたのです。
こうした状況の中、大阪城の将兵たちは、押し寄せてくる新政府軍迎撃に対する、慶喜の下知とその出馬を待っていました。しかし、当の慶喜は決定的な命令も行動も起こしません。これに対し、大阪城内に駐留する将兵たちは殺気立ち、慶喜を殺害してでも軍を動かそうという雰囲気になっていたといいます。
そうした気配を察した慶喜は1月5日、大阪城内で有名な大演説を行います。
それは「大阪城がたとえ焦土となろうと最後までここに踏みとどまり戦おうではないか。私がここで死んでも、江戸城の忠臣たちが遺志を継いでくれるだろう。もう思い残すことは何もない」という決死の内容でした。
これを聞いた城内の将兵はもちろん、前線で戦う兵たちも皆、感激し奮い立ったのです。
しかし慶喜はこの夜、まさに舌の根も乾く間もなく、一部の幕閣を連れ大阪城を脱出、大阪湾の開陽を半強制的に乗っ取り、江戸へ逃亡しました。
艦内で「何故、あんな演説を行いながら、将兵を大阪城に置き去りにしたのですか」と問われた慶喜は「ああでもしなければあの場が収まらなかった。あれは方便だ。」と述べたと言います。
それほどまでに慶喜は、迫りくる薩長兵だけでなく、城内の味方にも命を狙われる危険を感じていたのです。
「天下泰平」と称された江戸時代。しかし、幕末という終焉の時代を迎えると、その秩序はもろくも崩れ去り、戦国同様の下剋上がはびこる様になったのです。
公武合体論を遵守し、徳川家との融合を保守しようとした江戸時代最後の天皇・孝明天皇も、その死因については、暗殺をはじめ様々に論ぜられています。
幕末は、天皇・将軍・藩主でさえも下剋上の対象になりうる時代であったのです。
※参考文献:
野口武彦著『鳥羽伏見の戦い』中公新書、2010年1月
井沢元彦『学校では教えてくれない江戸・幕末史の授業』PHP新書、2021年2月
京あゆみ研究会・高野晃彰編著『京都歴史探訪ガイド』メイツユニバーサルコンテンツ、2022年2月
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