謎の多い戦国武将の筆頭格「明智日向守光秀」は、謀反人としての不人気よりも、花も実もある戦国大名としての評価の方が高いのではないでしょうか?
そんな、魅力のある明智光秀に山﨑で負けてほしくない!と思う私の独断で、羽柴筑前守秀吉にどうして負けたのか?どうすれば光秀は天下を取れたのかを検証してみました。
明智日向守光秀
生没:1528?年~1582年
出身:美濃の国とも言われるが不明
子 :本能寺の変で一族消滅。細川忠興に嫁いでいた娘「細川ガラシャ」が生き延びる
美濃の名家「土岐一族」との説もありますが、前半生の記録が少なく信憑性も乏しい。しかし、文化教養・武術、特に先端技術の鉄砲の使用法など高い知識・技術を身に着けた武将でした。
本能寺の変(史実)~山﨑の合戦まで光秀謀反の原因推理はミステリー作家に任せておいて、ここでは時系列で本能寺の変までを整理していきます。
本能寺の変までの経緯
1582年中国方面軍司令「羽柴秀吉」から織田信長に援軍の要請が入ります。備中高松城の毛利攻めの仕上げを信長に依頼してきたのです。信長の軍団は四方に展開していたので、畿内方面軍の「明智光秀」に出陣要請が入りました。
そこで信長より光秀に動員令が下り、兵力13,000程の軍団が空白の京都に向かえる条件が整いました。1582年6月2日未明のことです。
一方信長は、4月に武田勝頼を滅ぼし東は徳川家康に任せ、中国の毛利は秀吉により屈服直前、四国征討の準備も進み、北陸の上杉謙信も既に亡く、天下統一も目前に迫っていました。
この日は、本能寺に近習150人ほどを引き連れての宿泊で、後継ぎの信忠は2,000程の兵力で二条城に詰めていました。天下人信長の全くの油断で、光秀に千載一遇のチャンスが巡ってきます。
6月2日午前6時頃、水色桔梗の旗指物の光秀軍団が本能寺を囲みます。周到な光秀の謀反と知って信長は「是非も無し」と即座に諦め、弓と槍で立ち向かったと言われています。
光秀の失敗その1:信長・信忠を生け捕り又は討ち取ることができなかった。
二人の死が明らかになれば、山﨑の戦いでの兵力をもう少し上積みすることができたでしょう。
信長を攻め滅ぼした後の行動
謀反が成功するや明智光秀は、各地の信長敵対勢力に信長の死を伝えました。
毛利家にも光秀の使者が向かいましたが、困ったことに羽柴秀吉の陣営に捕らわれてしまい、先に秀吉の知るところとなりました。
他の大名クラスでは細川藤孝・忠興親子や筒井順慶に声をかけますが旗幟を鮮明にしません。味方工作の失敗です。一方で、足利幕府の旧幕臣などから味方も現れます。
光秀は6月3日には秀吉の本拠のある近江へ進出、5日に安土城を落とします。一見無駄な動きに見えますが、安土城の戦略的価値や金銀財宝の奪取は朝廷・大名工作に必要です。
とは言え、現段階の過小な兵力では、城の恒久的な確保はできません。
光秀の失敗その2:近江方面(長浜・佐和山)の城の守備兵を活かせていない
攻め落とした城の確保のために総数で2,000以上の守備兵を残している。秀吉が山﨑に進出したと情報が入ったら、守備兵も根こそぎ動員すべきです。
機動力を見せつける秀吉
秀吉が信長の訃報を知ったのが6月3日で、6日には備中高松を出発しています。
翌日までに20里ほど(80㎞)を走破して、姫路で2日間を休養と遅れている将兵を集める待機期間としています。さらに、勝負処と睨んで、姫路に蓄えた金銀・食料を、身分に応じて分け与えます。9日には再び行軍開始、11日には尼崎に到着する電光石火の中国大返しでありました。
山崎の戦いでの明智光秀の布陣
光秀も対応に動き、将兵16,000程で勝龍寺城の南西・円明寺川沿いにに布陣します。
しかし、なぜか標高差(周辺より高い)がある天王山を抑えずに高山右近・中川清秀に簡単に占拠されます。
光秀の失敗その3:天王山を抑えずに、秀吉勢の拠点とされてしまった。
明智軍は右翼にあたる天王山を攻めるも標高差があって攻めきれず撃退されます。中央軍は羽柴勢の攻勢を防ぎつつも右翼の劣勢から押しまくられ始める。
戦いは1刻(約2時間)程で追撃戦に入りました。開戦は午後4時頃と遅い時間で合ったとのこと。
明智勢が先に天王山を占拠していれば
下剋上の戦国時代とはいえ、主殺しの謀反人明智光秀の将来性に疑問を持つ大名は多かった。それゆえに、味方となる勢力は少なく兵力増強は望めない苦しい展開です。
それならば、味方工作は継続するも、羽柴秀吉との決戦に全力を尽くすべきでした。各拠点の守備兵は根こそぎ山﨑に動員して、実際の兵力16,000+2,000~4,000で合計20,000まで揃えたいところです。
戦場の選択は悪くありませんでした。京都の手前で迎撃するなら淀川沿いの山﨑は、兵力差約2倍の敵に対して狭隘の地を選んだ、戦上手の光秀の着眼は悪くありません。
そこで、どうしても天王山を抑えたいところです。左翼は淀川が防壁となるのであまり気にしなくてよい戦場です。中央は7,000の兵力で天王山と山麓には7,000の兵力を配置する。光秀本陣は中央の後方に布陣して予備兵力6000とします。
敵は標高差のある天王山に攻め寄せてくるでしょう。しかし、7000の守備兵があれば20,000の攻撃軍が来ても耐えられる拠点です。攻めに固執していれば被害拡大です。史実では、明智勢が天王山を攻撃するも攻めきれず撃退されています。
敵陣に乱れが生じれば、天王山から出撃して攻撃軍を敗退させることができます。
中央はひたすら膠着状態でよいでしょう。秀吉の軍勢が天王山を攻撃する際の、布陣の乱れを見極めて横腹を付けば潰走していきます。
天王山を攻撃してくる中川清秀や高山右近は撃退されて布陣が乱れます。ここで中央軍は齋藤利三に総攻撃の指揮を取らせたい。
兵力差は明智勢20,000と羽柴勢40,000と圧倒的に劣勢です。しかし、明智軍の善戦は期待できます。史実では負けましたが損害はほぼ互角で、秀吉軍の弱さが目立っています。これは、勝者側の記録として残っているので信憑性は高いと思います。
大切なことは、山﨑の戦いの遭遇戦に秀吉が着陣していないことです。秀吉の悪い癖として、大切な戦いで戦場を不在とする癖があります。
例えば、小牧・長久手の戦いでは家康追撃軍の指揮官を人任せ(甥の秀次)にしています。もし、秀吉が大返しの機動力で三河を攻略したら、家康から降伏を持ち出してきたでしょう。
賤ヶ岳の戦いでは戦場を留守にすると、攻め込まれ一時的に敗退。大きなところでは朝鮮出兵では、現地で指揮を取らないで2度の敗退となっています。天下人秀吉の持つ幸運を活かせていない合戦が目につきます。
明智光秀は緒戦の山崎の戦いに全力を傾けて、天王山を防御→攻勢出撃拠点として活用します。そして秀吉が着陣する前に撃退すれば負けはしなかったでしょう。
兵力差が約2倍あるので無理な追撃戦で秀吉を討ち取ることは考えられません。山﨑の戦いは追撃して殲滅するのは困難なので、勝った事実だけ宣伝すればよいと思います。
緒戦に勝利すれば様子見であった大名も光秀に味方したでしょう。光秀は朝廷の受けは良かったのですから。ここからが、明智天下のスタートとなったはずです。
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