池田恒興とは
ドラマ化した「信長協奏曲(のぶながコンチェルト)」で向井理さんが演じて注目された池田恒興(いけだつねおき)ですが、周りの名だたる武将に比べて影に隠れがちの存在であった。
織田信長との関りや、織田家の行く末を決定する清須会議(清洲会議とも)に参列した池田恒興について追っていく。
生い立ち
池田恒興は天文5年(1536年)尾張織田家の織田信秀の家臣・池田恒利の子として生まれる。
母・養徳院は恒利の主君・信秀の嫡男・織田信長の乳母と養育係に抜擢され、後に信秀に見初められて恒利と離縁させられて側室となる。
赤子の頃の信長は乳母の乳首を噛み20人ほどが交代したとされるが、養徳院にだけは良くなついたとされている。
こうして恒興は2歳年上の信長とは乳兄弟であり、義理の兄弟となって天文14年(1545年)には10歳で小姓として仕えることになる。
父・恒利は幼少の時に亡くなり、恒興は幼くして家督を継いでいる。
信長と共に萱津の戦い、稲生の戦い、浮野の戦いで武功を認められて桶狭間の戦いでは侍大将を任せられている。
その後の美濃攻めでも武功を挙げ、姉川の戦いでは丹羽長秀と共に徳川家康に加勢した功績により、犬山城主となって1万貫を与えられる。
織田家の宿老に
その後も信長と共に比叡山焼き討ち、長島一向一揆、槇島城の戦いなど重要な戦に参戦、その後、信長の嫡男・織田信忠の組下となる。
天正6年(1578年)荒木村重が信長に謀反を起こして籠城、それを説得に行った黒田官兵衛を幽閉されると、信長は恒興を呼び戻し、恒興は次男・輝政と共に荒木村重の有岡城の支城花隈城を攻略する。
その功績によって摂津(現在の大阪府北中部と兵庫県南東部)国内に12万石を拝領し、兵庫城を築城する。
今まで遊撃軍として戦っていた恒興だが、この働きによって恒興は織田家の宿老の一人となる。
天正10年(1582年)中国地方で毛利との戦いをしている羽柴秀吉の援軍を信長から命じられ、出陣の準備をしている時に本能寺の変が起こる。
首謀者の明智光秀から味方をするようにとの手紙をもらうが、恒興はそれを断わった。
しかし恒興は、光秀討伐の軍を出すだけの兵力や組織を備えてはいなかった。そんな時秀吉が中国から引き返してくるという報を受け、秀吉の軍と合流することにした。
実はこの前年に恒興の三男・長吉は秀吉の養子となって羽柴三郎と改名している。
また、合流した時に恒興の三女を秀吉の甥・羽柴秀次に嫁がすことになる。そして次男・輝政を秀吉の養子にすることを誓って秀吉に加勢した。
山崎の戦いでは5,000の兵を率いて右翼先鋒を務め、光秀の軍を破る。
清須会議
織田家の後継者選びと遺領の配分を決定する清須会議に、山崎の戦いで功績を挙げた恒興が、北条との戦いで遅れる滝川一益の代わりとして名を連ねた。
清須会議に出席した他の宿老は「柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀」
実力や経験共に恒興はその3人には見劣りするも、信長の乳兄弟であることと山崎の戦いの戦功が認められた。
後継者問題では信長の次男・信雄と三男・信孝が互いに譲らずにいたが、信長の孫・三法師を御名代とすることで双方が了解した。
三法師が織田家の家督を継ぎ信雄と信孝が後見人となり、それを秀吉・勝家・長秀・恒興の4宿老が補佐する体制となった。
遺領配分では恒興は摂津国から3郡を加増された。
清州会議ではそれまで織田家の筆頭家老だった勝家の影響力が低下し、秀吉が重臣の筆頭の地位を占めるなどと変わった。
会議後、秀吉は三法師の傅役の堀秀政と組み、長秀と恒興を懐柔して秀吉陣営を形成する。
それに対抗するように信孝は、勝家と会議から排除された滝川一益と組み、織田家家中は二つの勢力に分かれた。
秀吉は信長の葬儀を挙行し位牌を持つことで、信長の後継者として世間の注目を集める。
そして、三法師を抱えて離さない信孝側に対抗するために、長秀と恒興との三者会議で、信孝と勝家の謀反を理由に清須会議の決定を破棄し、信雄を織田家の家督に据えることにした。
こうして秀吉と勝家は対立を深め、翌年賤ヶ岳の戦いとなる。
恒興はこの戦いには参戦していないが、秀吉に臣従したために美濃国内に13万石を拝領して大垣城に入り、岐阜城には嫡男・元助が入る。
その後、秀吉と信雄の関係が悪化し、信雄は家康と同盟を結び、小牧長久手の戦いへと発展していく。
小牧・長久手の戦い
天正12年(1584年)秀吉vs徳川家康・織田信雄の小牧・長久手の戦いでは、信長の乳兄弟の恒興がどちらにつくのか去就が注目される。
信雄につく可能性が高いと思われていたが、恒興は秀吉に味方し犬山城を占拠した。
秀吉から、もし勝った場合は尾張1国を与えることを約束され、恒興は秀吉方として参戦したのだ。
しかし、恒興と協同した森長可軍が家康に動きを知られ、羽黒で森軍は死者300人以上を出して敗走してしまう。
両軍が対峙して膠着状態になると恒興は「小牧に軍勢が結集しているために家康の本国三河は守りが手薄だから、この隙に三河を攻撃すれば家康は大混乱になる」と秀吉に提案する。
秀吉は悩んだがそれを許し、第一隊・池田恒興軍兵6,000、第二隊・森長可軍兵3,000、第三隊・堀秀政軍兵3,000、第四隊・羽柴秀次軍兵8,000で三河へと向かった。
しかし家康にその動きが知られて秀次軍は敗れ、堀軍は後退、恒興軍と長可軍は長久手で徳川軍と激突する。
戦闘は2時間余り続いたが、森長可が狙撃されて討死にし徳川軍が優勢となり、恒興も槍を受けて討死、嫡男・元助も討死にしてしまう。
享年49歳、池田家の家督は次男・輝政が継ぐことになった。
家督を継いだ池田輝政は秀吉から一族に準じるほどの優遇をされて、後に徳川家康の娘・督姫を娶る。
秀吉の死後は家康につき、関ヶ原では東軍として岐阜城攻略の武功を挙げ初代姫路藩主となり、姫路城を改修して池田一族は92万石の大大名となった。
おわりに
織田信長の乳兄弟で幼少期から小姓として仕え、清須会議に宿老として参列したことから一気に大大名の仲間入りを果たした池田恒興。
織田家の優秀な家臣団の中では遊撃軍としての出陣が多く、目立つ活躍は出来なかったが、羽柴秀吉との関係を強めて山崎の戦いで主君の仇を取ったことで、織田家の四宿老へと出世した。
天下布武を目指した信長の近くで戦に明け暮れた49年間の生涯であった。
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