豊臣秀吉が死の直前に制度化した五大老と五奉行。
大大名の五大老と違い、五奉行の面々は、秀吉子飼いの大名であった。
信頼がおけるとして任命された 五奉行 の面々とはどのような人物なのか紐解いていこう。
浅野長政
豊臣政権の職制・五奉行は、五大老とともに、秀吉が死ぬ直前の慶長3年(1598年)7月13日に制度化された。これは幼い秀頼を推戴する政治機構として成立したのである。
その顔ぶれは石田三成、浅野長政、前田玄以(げんい)、増田長盛(ましたながもり)、長束正家(なつかまさいえ)である。5人に共通するのは、いずれも秀吉子飼いの大名で、秀吉の信任も厚く、すでに秀吉が関白になった頃から各方面で活躍していた。
実は5人中で一番最年少が石田三成である。だが、三成は後期秀吉政権の屋台骨を支え、関ヶ原合戦で散り、あまりにも有名なのでここでは他の4人を紹介することにする。
まず浅野長政だが、尾張出身の安井重継(やすいしげつぐ)の長男に生まれ、織田信長の足軽弓頭・浅野長勝の養女・ややの婿になった。ややは、秀吉の正室であるおねの妹で、この縁で長政は秀吉の一門衆になった。
秀吉が初大名になった長浜城で120石を与えられたのを皮切りに、秀吉のもと常に従軍して、暫時加増され、賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかいの後、2万3000石を知行するが、戦いは不得手で実務派だった。
長政の才覚
それゆえに京都奉行として才覚を発揮し、公家の所領問題も巧みに処理して京都所司代も務めた。
長政は天文16年(1547年)生まれで秀吉より10歳年下だが、身内だけに秀吉によく物申した。仙石秀久(せんごくひでひさ)が自らの失策で島津との戸次川の戦いに大敗し、軍勢の半分を失った際、激怒した秀吉は讃岐の領地を召し上げ、さらなる処分をしようとした。
これに長政は「旗本として武名高き得難き人物」と秀久をかばい、挽回のチャンスを与えるよう進言した。秀吉は長政の意見を聞いて秀久を許し、信州内で5万石を与えたという。
長政は奥州仕置や太閤検地に携わり、天正15年(1587年)には若狭15万石となり、6年後には甲斐22万5000石となった。朝鮮出兵では軍監として渡海したが、かの地で三成と対立した。もともと家康と親しく、三成・長盛の憎しみを買って陥れられ、武蔵府中に隠居せざるを得なくなったが、関ヶ原では息子の幸長(よしなが)と家康に味方して出陣。
浅野氏は江戸期も繁栄した。
前田玄以
前田玄以は前田利家の族人といわれ、比叡山に入って僧になった。
尾張小松寺の住職から信長に仕え、信忠が家督を継いだ天正3年から信忠に属し、半夢斎(はんむさい)と号して7000石を得ている。本能寺の変の際、二条城で信忠が戦死する直前、遺児の三法師(さんぽうし)の養育を頼まれ、脱出して岐阜城に入り、三法師を守った。玄以はもともと秀吉と親しく、織田家の相続をめぐる清州会議で、天下争奪をねらう秀吉が幼い三法師を擁立したことで、玄以も秀吉にとって重要な人物となり、三法師の守役にされた。翌天正11年に三法師の後見役となった織田信雄(おだのぶかつ)から京都奉行職に補せられ、行政官としての道を歩む。
主に公家、寺院・京中の政務を取り仕切った。思慮深く、色欲なく、大体に通じ、内典下典の学術から歌道まで兼学した有識の士だった。ゆえに聚楽第行幸の儀式一式を取り仕切り、醍醐の花見にも関わり、秀吉の豊国廟の建設をも主催した。文禄4年(1595年)には丹波亀山城で5万石の大名になっている。
関ヶ原では西軍になったが、大阪城にあって三成の挙兵をいち早く家康に伝え、裏で家康に通じて所領を安堵されている。
長束正家
長束正家は、はじめ丹羽長秀(にわながひで)に仕え、行政・財政畑で重用され、天正13年に長秀が死んでから秀吉に召し出された。
経済をよく知る正家は、秀吉の島津討伐の九州動座では兵糧米、人馬の調達で手腕を発揮している。そして、小田原の北条攻めでは多くの吏員を動かし、黄金1万枚を使い、兵員20万人の米の調達・運搬から人夫や馬の動員に奔走した。朝鮮出兵では名護屋(佐賀県)の前線基地にあって、兵糧奉行として活躍している。
また、全国に散らばる豊臣家の蔵入地200万石を管理し、遠隔地からは船を用いて米を大阪に集め、これを売買して巨額な富を作りだし、秀吉の台所をとても豊かにした。これらの功績によって近江水口城で5万石になり、さらに12万石に加増されている。
関ヶ原では西軍に属し、南宮山(なんぐうざん)に陣したが、吉川広家(きっかわひろいえ)に邪魔されて戦えず、水口城に帰ったところを東軍に包囲され、10月3日、自刃して果てた。
増田長盛
増田長盛は秀吉が身分が低かったころから仕え、賤ヶ岳の戦いの前、上杉景勝の懐柔の任にあたって成功し、小牧長久手の戦いの功と併せて2万石を得た。
秀吉の知行雑務に従事し、東国中心に太閤検地にも尽力している。『名将言行録』には
「すこぶる豪胆あり。よく損益を弁ず。諸事を校論するに裁断流るるごとし。民の訴訟を断ずるに、皆その当を得、人その公平に服せり」
とある。
秀吉の弟・秀長が死んだ後の大和郡山城で20万石を賜り、朝鮮出兵では名護屋で玉薬・兵糧の輸送にあたり、自らも兵を率いて渡海した。関ヶ原の戦いでは、家臣に兵を授けて西軍に味方させたが、自らは大阪城にあって秀頼を守った。ただ、家康に大阪の状況を知らせて両天秤にかけた態度をとっている。
戦後、家康はそんな長盛を許さず、所領は没収され、武蔵岩槻城主の高力清長(こうりききよなが)に預けられた。大阪の陣で大阪城に入ってスパイをするよう家康から命じられたが、これを断ったとされる。
だが、息子・守次が大阪に味方したため切腹を命じられたとも、秀頼が死んで豊臣家が滅びたことを悲しんで自殺されたともいわれている。
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