松永久秀(まつながひさひで)といえば、数々の悪行で有名な人物です。
主君に反旗を翻したり、将軍殺害の黒幕とされたり、奈良の大仏を焼き払ったり…とまさに戦国時代の乱世を象徴するような逸話が、創作も含めて数多く残っています。
中でも強烈なのは、お気に入りだった茶釜に火薬を詰めて、自分の城もろとも爆死したという逸話でしょう。
今回は、松永久秀のド派手な生涯について紹介していきます。
一度目の裏切り…信長まさかの許し
「ワシは日本一の正直ものでごさる。それゆえ義理や人情という嘘はつきませぬ。弱ければ裏切られる、ただそれだけのこと。裏切られたくなければ、常に強くあればよろしいのじゃ」
信長を裏切っておきながら、はっきりと言い切る久秀。
周りに控える信長の家臣たちはハラハラしながら、信長と久秀のやり取りを見守っています。
「ふん、おもしろいことを言うのう。…よし、今回ばかりはおぬしを許そうではないか」
元亀3年(1572年)久秀による1度目の謀反の後、信長はあっさりと久秀を許しました。
事の発端は、久秀が畿内で主君であった三好家と対立し、覇権争いを行っていた時のこと。
久秀は劣勢に立たたされており、戦況を変えるべく、織田信長と同盟関係を結んだのです。
久秀は信長と同様に名物茶器のコレクターとして有名で、信長に従うことを示すために、当時は「これひとつで城が建つ」とまで言われた秘蔵の茶器「九十九髪茄子(つくもなすび)の茶入れ」を献上しました。
そして信長によって三好家が一掃され、畿内は平定。
久秀は、畿内で大きな力を手に入れることになったのです。
しかし、信長と15代将軍の足利義昭が対立して信長包囲網が形成されると、久秀はなんと信長を裏切って、足利義昭と通じるようになりました。
室町幕府最期の将軍・足利義昭 【信長を包囲網で追い詰めるも敗北 〜追放されたが生き続けた将軍】
https://kusanomido.com/study/history/japan/sengoku/ieyasu/66253/
そして元亀3年(1572年)久秀は信長に反旗を翻し、かつて対立していた三好家と組んで信長に対抗します。
ところが、この信長包囲網作戦の一番のキーパーソンである武田信玄が、京都へ攻め込む途中で病死してしまい、一気に形成は逆転。
足利義昭は追放されてしまいます。
それに伴い、久秀の居城である多聞山城も信長に攻め込まれますが、降伏したことで命は助けられ、再び信長に仕えることになったのです。
3つの悪事で仲間意識を持っていた?
信長といえば残忍な性格で、謀反や裏切りを絶対に許さないイメージがありますが、あっさりと久秀を許したのは、それだけ特別な思いがあったのでしょう。
後日、久秀が徳川家康と初めて対面した時、信長は次のように紹介したという逸話があります。
「家康殿、この者は信じがたい悪事を3つもしてのけたのじゃ」
3つの悪事とは通説では、主君の三好家に反旗を翻したこと、将軍である足利義輝の殺害関与疑惑、東大寺大仏殿を焼き払ったことを指します。
信長もまた、将軍・足利義昭の追放や比叡山焼き討ちなど、情け知らずで合理主義的な面があり、二人はまさに同類。
信長は久秀に対して、どこか憎み切れない気持ちがあったのかもしれません。
二度目の裏切り…からの壮絶な爆死
しかし1度目の裏切りからたった5年後。
上杉軍が「打倒・信長」を掲げて進軍を開始すると、久秀はまたもあっさりと信長に反旗を翻します。
上杉謙信率いる上杉軍は織田軍に手取川の戦いで勝利しますが、なぜか謙信は進軍を止め、越後へと引き返してしまいます。(※豪雪を恐れた説、北条氏政が関東へ進軍し本国防衛のためだった説など諸説あり)
こうして、久秀の裏切りも失策となりました。
久秀は、居城の信貴山城(しぎさんじょう)に立てこもって体制を整えようとしますが、信長の圧倒的な兵力の前に適うはずもなく、八方塞がりに陥ります。
ここでも、信長の久秀に対する寛容な態度に家臣たちは驚きました。
「ワシが心より欲しておる天下の名物茶器『古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)の釜』を差し出せば、命だけは助けてやろう。そのように久秀に伝えてくるのだ」
信長は息子・信忠にそう告げて、久秀を助命しようとしたのです。
しかし、久秀はこの申し出を拒否。するとまもなく織田軍の総攻撃が始まりました。
そして久秀は驚きの行動に出ます。
信長へ見せつけるかの如く天守へ登り、平蜘蛛の茶釜に火薬を詰め始めました。そして喚き叫びます。
「この平蜘蛛の茶釜とワシの首の2つは、信長公のお目にかけようとは思わぬっ!」
ドゴォーーーーン!!!
こうして爆薬に点火して爆死。壮絶な最期を迎えたのでした。
おわりに
二度も裏切ったにもかかわらず、信長が助命しようとしたことを考えると、久秀は相当有能な人物で「なくすには惜しい」と思われたのでしょう。
「久秀は日本で最初に爆死した男」と言われていますが、実はこの逸話は後代の創作で、実際の死因は焼死もしくは切腹が正しいとされています。
とはいえ、このような創作がされるほど波乱万丈で個性的な人物だったことには違いありません。
残念な死に方辞典 監修:小和田哲男
へうげもの 著:山田芳裕
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