織田信長の家臣団は、歴史好きでなくても知っているような、錚々たるメンバーである。
しかし、詳しく見ると、信長の家臣団はいくつかに分類することができる。
信長の家臣団は一体どのような分類がされていて、どんなメンバーがいたのだろうか。
特に、本能寺の変の直前には、最強の家臣団が揃っていたと考えられる。
ここでは本能寺の変の直前における、織田軍の内訳を紹介する。
信長の一族・連枝衆
連枝衆(れんししゅう)とは、信長の一族に連なる武将たちのことである。つまり、信長の息子や親戚から成り立つ。
主な武将としては織田信雄(のぶかつ・信長の次男)や、信包(のぶかね・信長の弟)などである。
ただし、信長の嫡男である信忠は含まれない。信長は嫡男を別格扱いしており、それ以外の一門が連枝衆に該当した。
このため、連枝衆は信長家臣団の中核を担うような勢力にはならなかった。
信長の嫡男・織田信忠軍
信長の嫡男・信忠の軍勢である。
信忠は正当な信長の後継者であり、そのため他の一門とは明確に区別されていた。
信長は信忠に家督を譲り、尾張・美濃の軍勢をその配下にした。
この配下の中でも、それぞれ役割があり、部将・旗本・吏僚(りりょう)などに分かれていた。
主な武将としては、部将の森長可や水野忠重、吏僚として前田玄以などがいる。
頭脳派の文官・吏僚
吏僚(りりょう)とは、戦闘に参加せず、内政を担当する文官である。
縁の下の力持ちの役割を果たし、京都所司代(京都の治安を守り、朝廷などと交渉する役割)や、堺代官などの大役を担う者もいた。
吏僚は奉行衆・右筆・同朋衆などに分かれており、その他に京都所司代の村井貞勝や、堺代官の松井友閑(ゆうかん)などがいた。
側近中の側近・旗本
旗本は、信長の側で仕えた直臣であり、身の回りの世話をする小姓や、馬廻などがいる。
小姓・旗本部将・弓衆・馬廻と役割が分かれていた。
戦闘時には本陣を固める役割を持ち、最後の砦となる存在である。
旗本からは、出世して大身の武将になる者もいた。
信長の小姓から有名武将になった者としては、丹羽長秀や前田利家がいる。他に有名な人物としては、森蘭丸や堀秀政、稲葉良通(一鉄)などがいる。
各所で活躍する花形・部将
この部将こそが、織田軍の中心的役割を担ってきた家臣たちである。
信長の天下統一の野望に従い、戦国大名相手に大きな兵力で戦ってきた。以下に主要な部将を挙げる。
・中国方面軍の部将・羽柴秀吉
後の天下人・豊臣秀吉である。
彼の配下には、弟の羽柴秀長、軍師の黒田官兵衛、武将の蜂須賀小六、本能寺の変前に死去した竹中半兵衛もいた。
また、まだ頭角を現していなかった石田三成、加藤清正、福島正則らも所属し、後の豊臣政権の中心人物となった。
さらに、各地で味方に引き入れた因幡衆、伯耆衆、播磨衆、尾張衆、美濃衆、備前衆、美作衆なども所属していた。
秀吉は中国方面で毛利家と戦い、信長の死後に中国大返しを決行、その後に台頭していったのがこの中国方面軍である。
・近畿方面軍の部将・明智光秀
本能寺の変を引き起こした、明智光秀が率いる軍である。
光秀の軍には与力として細川藤孝や筒井順慶などが属していた。また、丹後衆、大和衆、丹波衆、近江衆、旧幕府衆などを従えていた。
本能寺の変後、光秀が頼りにしようとした武将たちは、この近畿方面軍に揃っていたが、結局味方になる者は少なく、光秀は山崎の戦いで秀吉に討たれた。
・北陸方面軍の部将・柴田勝家
織田家譜代の重鎮、柴田勝家が率いる軍である。
北陸方面で、主に上杉家と戦っており、前田利家・佐々成政・佐久間盛政などが属していた。
越中衆・能登衆・加賀衆なども味方につけていた。
後に秀吉と敵対することになる勝家だが、賤ヶ岳の戦いは、中国方面軍と北陸方面軍の戦いだったとも言える。
・関東方面軍の部将・滝川一益
滝川一益が仕切り、元武田軍の勢力や、上杉家を相手にしていたのがこの関東方面軍である。
一益の軍は一門衆の他に、尾張衆・上野衆・信濃衆などがいた。
真田幸村の父、真田昌幸も関東方面軍のメンバーである。
・四国方面軍の部将・織田信孝
織田信孝(信長の三男)を中心とした軍であり、四国方面の長宗我部家を相手にしていた。
信孝は神戸家に養子に入っていたため、神戸信孝とも呼ばれていた。また、彼は連枝衆でもあった。
この軍は北伊勢衆を配下に置き、三好康長などを従えていた。四国征伐を計画していたが、本能寺の変の勃発により中止となった。
・遊戯軍
遊撃軍、つまり別働隊である。
この軍にはリーダーが四人おり、丹羽長秀・池田恒興・蜂屋頼隆・織田信張であった。
丹羽長秀は若狭衆、池田恒興は摂津衆、蜂屋頼隆は和泉衆、織田信張は和泉衆・根来衆・雑賀衆を従えていた。
丹羽長秀と蜂屋頼隆は四国方面軍と共に四国征伐を計画していたが、本能寺の変の勃発により中止となった。
味方になったばかりの実力者・外様衆
外様衆とは、かつて敵対勢力であったが、後に信長の軍門に降った部将たちを指す。
この中には、信長に追放された幕府の将軍・足利義昭に従っていた武将も含まれる。
主な人物としては、阿波・讃岐で活躍していた十河存保(そごう まさやす)、淡路水軍の安宅信康(あたぎ のぶやす)、旧公方衆の細川藤賢(ほそかわ ふじかた)・細川信良(ほそかわ あきもと)などがいる。
おわりに
信長は、一門や古参の家臣に執着しなかったと伝わる。
実力主義の考え方を重んじ、能力さえあれば、身分が低くても、かつて敵対していた者でも重要な地位に抜擢していた。
その最たる例が羽柴(豊臣)秀吉であろう。
秀吉の能力は現代人にはよく知られているが、もし信長以外の主君に仕えていたら、その才能は埋もれていたかもしれない。
その一方で、連枝衆は実力主義の波に飲まれ、冷遇されることが多かった。本能寺の変後、彼らは信長の後継者を目指して画策したものの、最終的に天下を統一したのは秀吉であった。
もし、嫡男の信忠が本能寺の変で死去しなかったら、秀吉が天下を取れたかはわからない。
なぜなら信忠もまた、信長に大きく評価されていた人物だったからである。
参考:『信長公記』『歴史道vol.1』
文 / 草の実堂編集部
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