現在放送中の大河ドラマ「豊臣兄弟!」で主人公として描かれている豊臣秀長。
その父は、いったいどのような人物だったのでしょうか。
この謎を考えるうえで鍵となるのが、「同朋衆(どうぼうしゅう)」という、あまり聞き慣れない言葉です。
秀長と旭(駿河御前)の父については、秀吉の父とされる木下弥右衛門ではなく、弥右衛門の死後に母・なかと再婚した竹阿弥であったとする説があります。(※秀吉と秀長を同父とする史料もあり)
竹阿弥は、「信秀の同朋衆、尾州ハサマ村の人」と伝えられ、織田信長の父・信秀の同朋衆を務めていたとされています。
今回は、この「同朋衆」に焦点をあて、その正体を紐解いていきたいと思います。
「同朋衆」は武家社会の文化職を担う人々

画像:足利義持肖像(神護寺蔵)public domain
同朋衆は、室町時代初期に室町幕府の職制に組み込まれた役職です。
史料には「トモニツレタル遁世者」とあり、将軍のそば近くに仕えた出家風の人々を指していました。
その名称の由来については、二つの説があります。
一つは、将軍に近侍する「童坊(どうぼう)」から転じたという説。
もう一つは、宗教的な意味を持つ「同行同朋」から来たという説です。
この宗教的由来説は、一遍が開いた時衆に、芸能に優れた者が集まっていたことと関係するといわれます。
同朋衆の名に「阿弥号」が付くのも、そのためだと考えられています。

画像 : 足利義政像 public domain
同朋衆は、もともとは足利将軍家に仕えた人々でした。
同朋衆は足利義満の時代に形が整えられ、文化の花開いた8代将軍・足利義政の時代にかけて、制度として最も充実します。
この頃には将軍家だけでなく有力守護大名も同朋衆を抱えるようになり、その慣習は戦国時代へと受け継がれていきました。
室町将軍家の“文化職”として成立した同朋衆は、やがて守護大名へ、さらに戦国大名へと継承されていったのです。
ですから、織田信秀や信長、さらには豊臣秀吉や徳川家康のもとにも、同朋衆がいたことは全く不思議ではありません。
多岐にわたる職掌で文化的影響力を与えた

画像:座敷飾としての立花。『慕帰絵詞』public domain
同朋衆の職務は、実に多岐にわたります。
使い走りや掃除・配膳といった主君の身の回りの世話から、唐物奉行・座敷飾りの設計・香道・茶の湯・立花の扱い、さらには和歌・連歌の会への参加まで、その守備範囲はさまざまでした。
一芸に秀でた者も多かったのですが、実際には雑務もこなす「多機能な文化人」であったと見るのが実情に近いようです。
なかでも後世に名を残したのが、いわゆる“四阿弥”です。
毎阿弥・能阿弥・芸阿弥・相阿弥の4代は、将軍家の唐物・唐絵の管理や鑑定・表装・出納を担い、それらを用いた書院座敷飾を完成させました。
彼らが整えた座敷飾の形式は、中世美意識の基準となります。
絵画では「国工」「国手」と称され、連歌では「宗匠」と仰がれるなど、その文化的影響力は絶大でした。
特に4代目の相阿弥は作庭にも優れ、龍安寺石庭の作庭者と伝えられるなど、東山文化を支えた重要人物です。

画像:同朋衆が描かれた『足利義持若宮八幡宮社参図絵巻』(京都若宮八幡宮所蔵)public domain
同朋衆は剃髪していましたが、派手な衣装をまとい、腰には刀を差していました。
その姿は『足利将軍若宮八幡宮参詣絵巻』にも描かれており、彼らが単なる下働きではなく、武家社会の一角を占める存在であったことがうかがえます。
観阿弥・世阿弥をはじめ千利休も輩出

画像:志野宗信 public domain
同朋衆は、武家社会における文化事業の担い手でした。
その周辺には、同朋衆と深く関わった、あるいは同朋衆的役割を果たした人物もいます。
たとえば、能楽を大成した観阿弥・世阿弥父子。
彼らは足利義満の庇護を受け、猿楽能を武家社会の文化の中心へと押し上げました。
また、作庭家の善阿弥、香道の志野宗信、そして、書院の立て花の名手である立阿弥(りゅうあみ)なども、同朋衆的文化人として語られることがあります。
さらに興味深いのが、義政に仕えた千道悦です。彼は茶の湯に通じただけでなく、政治的役割も担っていた可能性が指摘されています。
その孫である千利休は、厳密には同朋衆ではありませんが、秀吉のもとで茶の湯を通じて政治と文化を結びつけた姿は、同朋衆の機能を受け継いだ存在とも言えるでしょう。
文化を動かしたプロフェッショナル集団
同朋衆とは、単なる雑役ではありませんでした。
主君のそばに仕え、文化を整え、美意識を設計する存在、いわば武家社会におけるアートディレクター集団だったのです。
先述したように室町将軍家に始まったこの制度は、戦国大名へと受け継がれました。

画像:豊臣秀長 public domain
豊臣秀長の父・竹阿弥がその一員であったとすれば、秀長の出自は単なる農村の枠にとどまらなかった可能性があります。
彼は武家文化の中枢と、どこかで接点を持つ環境に育った可能性があるのです。
このように同朋衆は、表舞台には現れにくい存在でしたが、将軍家や大名のもとで文化を支えた専門職集団でもありました。
そう考えると、豊臣兄弟の出世の背景にも、同朋衆の存在があったと見ることができるでしょう。
※参考文献
村井康彦著 『武家文化と同朋衆』ちくま学芸文庫
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

























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