上杉茂憲とは
上杉茂憲(うえすぎもちのり)とは、明治維新後、沖縄の二代目県令に就任し、たった2年間の在任期間でありながら140年も経った今でも沖縄の人々に敬愛されている人物である。
戦国時代に越後の龍と謳われた上杉謙信、江戸時代の中でも屈指の名君と誉れ高い米沢藩中興の祖と言われた上杉鷹山、その流れを汲む上杉家最後の米沢藩第13代藩主となり、幕末と明治維新の動乱期を生きぬいた。
上杉謙信の「義」を引き継いだ男は、明治維新後に沖縄県令(現在の沖縄県知事)となり、政府に逆らい熱意のある行動を取る。
沖縄で「義」を貫いた最後の米沢藩主・上杉茂憲について解説する。
上杉茂憲の出自
上杉茂憲は江戸時代の後期、天保15年(1844年)出羽国米沢藩第12代藩主・上杉斉憲の長男として生まれる。
父・斉憲の庶子であったが生後すぐに嗣子として指名され、徳川幕府第14代将軍・家茂の偏諱を受け「茂憲(もちのり)」と名乗った。
慶応4年・明治元年(1868年)戊辰戦争が勃発すると、父・斉憲と共に奥羽越列藩同盟に与して新政府軍と戦うも敗れて降伏する。
この時、父・斉憲が処罰として藩主の地位から退き、茂憲が家督を継いで第13代の米沢藩主となった。
しかし、藩の実権は父・斉憲が握り、茂憲には活躍の場がほとんど無かったという。
明治2年(1869年)版籍奉還により米沢藩知事となり、茂憲は旧藩士らに旧米沢藩の囲金や上杉家の備金などから10万両余りを分与した。
明治4年(1871年)廃藩置県により米沢藩は廃止、茂憲は東京に移住して宮内省に勤め、イギリスに自費で留学した。
帰国後の明治14年(1881年)5月に政府から意外な知らせが届く。茂憲に「第2代の沖縄県令に就任せよ」との命が出たのだ。
沖縄県令とは現在でいう沖縄県知事のことである。
沖縄県令の条件
茂憲はかつて新政府軍と戦った男である。そんな茂憲が新政府から沖縄県令に任命されるには何か裏があるのではないかと思えた。
当時の沖縄県令は新政府の出世コースではなく、元敵という立場からいわゆる「いじめ」や「嫌がらせ」という部分もあったのではないかとされている。
明治14年の沖縄は、明治新政府が琉球王国を廃し沖縄県を設置してまだ間もない頃で、士族たちの不満が強く、政治的に混乱している時期であった。
このため当時の沖縄には「旧慣温存(きゅうかんおんぞん)」という明治政府の沖縄統治方針があった。
これは土地や税金などに関する制度をそのまま残すという手法で、旧支配層の反発を避けるために行われた政策である。
上級士族の家禄や領地は当面保障され、下級士族は職を失い、従来からの農民の土地私有を許可しない地割制度や、それに基づく現物納入などの租税制度も続行されていた。
また、士族である地方役人には免税特権があり、先島諸島の人頭税も温存されていた。
当時の明治政府は茂憲が政治の実務に疎く、古い制度を残すには都合の良い人物だと思っていた。
つまり「このまま何も手をつけるな、改革するな、余計なことはするな」ということであった。
このように元大名の茂憲が沖縄県令になる条件は「何もしないこと」という屈辱的なものだったが、茂憲はこの話を受けた。(※逆らうことが出来なかったとも)
沖縄県令として
沖縄県令となった茂憲は当時16歳の少年・高良次郎を通訳として雇っていた。
沖縄地方の言葉は独特で、通訳なしでは何を言っているのかさっぱりわからなかったからである。
茂憲は向学心の強かった者を好んだ。高良次郎は手伝い兼通訳として住み込みで雇われ、茂憲が県令を終えた後は茂憲の家族らと共に東京へ連れて行ってもらい、上杉家の私費留学生として大学に入学している。
県令として着任して5か月後の明治14年11月から、茂憲は沖縄県内の視察を開始する。
道なき道を歩きながら県内各村の現状を把握していった。そこで知ったのは地方で暮らしている人々の過酷な生活状況だった。
ある村についた茂憲は、借金で苦しみながらも前向きに生きる人々の姿に感動したという。
その村は東風平(こちんだ)という村で子供の教育に大変力を入れていた。茂憲はそこに一つの活路を見いだした。
茂憲は各地の役人たちを集めて「学問に関することは東風平を目標にして奮起せよ」と訓示するほどであったという。
茂憲は、教育制度の充実が沖縄の更なる発展につながると確信したのである。
県費留学生制度の創設
茂憲は在任中に未来ある若者の人材育成を目標とした「県費留学生制度」を創設した。
明治15年、第1回県費留学生制度に5人が選ばれた。士族から4人が選ばれ平民からは東風平の謝花昇(じゃはなのぼる)が選抜された。
かつて宮内省に勤めていた茂憲は、まずは学習院大学で受け入れらるように働きかけ、内地の言葉と生活に慣れさせてから5人を慶應義塾大学や帝国大学農科大学、高等師範学校などで学ばせた。
士族からの4人は岸本賀昌・太田朝敷・高嶺朝教・今帰仁朝蕃(中途で帰郷し山口全述に代わる)で、彼らは沖縄に戻ってから大活躍をする。
岸本賀昌は沖縄県・内務省の役人を歴任後、沖縄県初の衆議院議員を4期務め、沖縄毎日新報社長・沖縄共立銀行頭取などを経て那覇市長になった。
太田朝敷は琉球新報を創立して社長になり、後に首里市長となった。
高嶺朝教は太田朝敷と共に琉球新報を創刊、沖縄銀行頭取を経て衆議院議員となり、辞職後は首里市長や沖縄電気取締役を務めた。
今帰仁朝蕃は琉球王国第二尚氏王統第18代・尚育王の三男で、男爵となった。
謝花昇は帝京大学農科大学を卒業後、沖縄県庁に技師として入庁、農政改革に尽力した後に自由民権運動の指導者となった。
山口全述についての詳しい資料は残っていない。
第1回県費留学生制度で選ばれた若者は、沖縄県の政治・経済に尽力したのである。
意見書の提出
沖縄県民の多くが貧困に苦しむ姿を目の当たりにした茂憲は上京して「教育の必要性と人間らしい生活のために産業振興すべし」と、政府に意見書(改革案)を提出した。
しかし、政府の方針に反して急進的過ぎると茂憲の意見書は黙殺されてしまう。
そのため政府に睨まれた茂憲は、沖縄県令をたった2年で解任されてしまった。
茂憲は沖縄を離れる時に、1,500円の私財を奨学資金として沖縄県に寄付している(※当時の県令の月俸は200円)
おわりに
上杉茂憲の沖縄県令在職中の態度は精励そのもので、直接住民の家を訪ねて聞き取りを行い、休日もなく働き詰めであったという。
たった2年間ではあったが、政府の命令に反して沖縄の民のために「義」を貫いた茂憲のことを沖縄の人々は尊敬し語り継いだ。
米沢藩最後の藩主・上杉茂憲は子孫に対して「質素であること・義を重んじること」という遺言を残して亡くなった。
上杉謙信の「義」と上杉鷹山の「民のため」を受け継いだ男は、遠く離れた沖縄の地でもそれを実践したのであった。
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