西南戦争直後の反乱 竹橋事件
竹橋事件 は西南戦争の翌年、明治11年(1878年)の8月に起こった大日本帝国陸軍の近衛兵による反乱事件です。
陸軍における最初の反乱事件でしたが、皇居を守る立場にあった近衛砲兵大隊の竹橋部隊が起こした不名誉な事件であったことから、太平洋戦争後まで真相は公にされてませんでした。
この反乱に加わった兵士は259名に及び、その兵の内の55名が処刑されました。
この事件を契機として陸軍内部に兵を取り締まる憲兵や、皇居を守るために皇宮警察が設置されることになりました。
また軍においては兵士の心構えを定めた「軍人勅諭」が下賜されるなど、最大の内戦であった西南戦争を終えたばかりの政府にとって、この事件の衝撃の大きさが分かります。
二時間半の反乱
反乱は1878年(明治11年)8月23日の午後11時頃でした。
近衛砲兵大隊竹橋部隊を中核とした兵259名が山砲2門を持ち出して決起、これを聞きつけて現れた大隊長の宇都宮茂敏少佐と深沢巳吉大尉を殺害して始まりました。
すぐに近衛歩兵第1、第2連隊が鎮圧に出動し、反乱軍との銃撃戦が展開されました。このとき反乱軍は時の大蔵卿であった大隈重信の邸へも銃撃を行い、周辺の住居へ放火を実行しました。
この後、約1時間に渡って銃撃戦が展開され鎮圧軍は2名が死亡、4名が負傷しましたが、反乱軍も6人が死亡し、70名以上が捕縛されました。
反乱軍は午後12時頃には弾薬が底をつき始め、天皇のいる赤坂仮皇居に集まってくる政府要人を拉致しようと試みましたが、20数名が鎮圧軍の説得によって投降しました。
残った94名の反乱軍は赤坂離宮の正門にて「嘆願の趣きあり」 と声を挙げたと伝えられています。
正門の警備にあたっていた近衛歩兵隊が反乱軍を阻み投降を呼びかけると、決起の失敗を悟ったリーダー格の兵士・大久保忠八が銃で自決して果てました。
これを最期に残りの反乱軍全員が午前1時30分に投降して、蜂起からわずか2時間半で鎮圧されました。
反乱の原因
竹橋事件が起こった理由は大きく3つの原因があったとされています。
第1の原因は、近衛砲兵の給料でした。これは近衛砲兵は本来は他の兵より良い給料だったものが、懐具合が厳しかった政府によって彼ら近衛砲兵の給料が減俸に処された為でした。
第2の原因は、前年の西南戦争に際して最大の激戦となった田原坂の戦いの勝利に貢献したにも拘らず、他の部隊にあった報償が、近衛砲兵隊になかったことでした。
しかしこれは、地方から順に報償が実施され中央部隊への報償が後になっていただけで実際に予定がなかった訳ではありませんでした。しかし薩長以外の出身者が多かった近衛砲兵の間では、その被害者意識も少なからず影響を与えたと考られています。
3つ目の原因は、徴兵制度です。近衛砲兵の多くが農家の長男以外の男子で幕末には志願して兵隊になった者が多かったにも関わらず、以後は長男であろうと無理やり兵隊にさせられる制度が導入されたことへの不満でした。
軍人勅諭
竹橋事件がその成立のきっかけとなった軍人勅諭は、1882年(明治15年)1月4日に明治天皇が下賜しました。
西周が原文を起草したものに修正が加えられて作られたと伝えられています。軍人としての精神的な在り方を示した勅諭でしたが陸軍と海軍とではその扱いに温度差もあったようです。
陸軍では兵は軍人勅諭を丸暗記することが求められたのに対し、海軍ではその精神を理解することを基本としたと伝えられています。
こうした面にも、英米の影響が強かった海軍と陸軍との気風の違いが感じられます。
この記事へのコメントはありません。