今回は前編に引き続き、後編である。
河上彦斎(かわかみげんさい)とは、人気漫画「るろうに剣心」の主人公・緋村剣心のモデルとなった人物である。
熊本藩の下級武士だった彦斎は居合術の達人となり、山鹿流軍学の宮部鼎蔵(みやべていぞう)と出会い、その影響を受けて尊王攘夷の思想を固めていった。
京において警護兵として実績を積み、尊攘派たちと共に活動していたが「八月十八日の政変」において、尊攘派の長州藩と三条実美ら公卿たちが京から追放され、彦斎も熊本藩に戻らなければならなくなった。
しかし彦斎は長州へ移り、三条実美の警護を務め、長州の攘夷派と親しくし人脈を作っていた。
そんな時に「池田屋事件」が起こる。
彦斎の同志や友人たちの多くが命を落としてしまったのである。
この話を長州で聞いた彦斎は、宮部の仇を討つべく再び京へ向かった。
佐久間象山の暗殺
長州の志士たちの師であり「安政の大獄」で死罪となった吉田松陰の師・佐久間象山は京都にいた。
佐久間象山は、前述した長州藩の追放や池田屋事件にも関わっていたとされ、公武合体派で開国論者の重鎮であった。
そのため彦斎は佐久間象山の暗殺を企てていたともいわれている。
元治元年(1864年)7月11日、西洋の馬の鞍を使って神聖な京都の街を闊歩していたという理由で、彦斎は佐久間象山を衝動的に斬った。
(※衝動的なのか計画的なのかは定かにはなっていない)
佐久間象山は当時「洋学」において最も先鋭的な考えを持った人物だったが理解されず、「西洋かぶれ」と揶揄されていた。性格も自信過剰で破天荒だったようで、弟子たちの評判もあまり良くはない。
しかし佐久間の門弟は、「吉田松陰、小林虎三郎、勝海舟、河井継之助、橋本左内、岡見清熙、加藤弘之、山本覚馬、坂本龍馬、北沢正誠」などそうそうたるメンバーで、後の日本に多大な影響を与えたことも事実である。
禁門の変と長州征伐
佐久間象山の暗殺から数日後の7月19日、長州藩と幕府軍による京都市街戦「禁門の変」が勃発し、彦斎は長州と共に戦った。
長州藩は禁門の変で敗れ、その後、幕府による長州征伐が始まった。
彦斎は、第二次長州征伐において長州藩の高杉晋作の奇兵隊に参加し、共に戦って勝利している。(※この敗戦が江戸幕府の滅亡の始まりとも言われている)
その後、熊本藩が幕府軍として長州藩と戦ったことを聞き、桂小五郎や高杉晋作が止めるのを振り切り、彦斎は藩を説得するために一人熊本へと帰った。
(※高杉晋作とは良好な関係だったが、後に高杉が開国論に転じたために罵倒して絶交したとも言われている)
明治維新
熊本に戻った彦斎に待っていたのは投獄だった。
熊本藩では佐幕派が実権を握っていたために、説得どころか逆に投獄されてしまったのである。
その期間は1年間にも及び、その間に世の中は大政奉還、鳥羽・伏見の戦いを経て幕府は崩壊してしまった。
時代は明治へと移り、佐幕派だった熊本藩は投獄していた尊王の志士たちを藩の役人に取り立てるために出獄させ、彦斎たちを利用して維新の波に乗ろうと画策した。
彦斎は出獄して外交官として登用されたのである。
理想と現実
明治新政府の参与となった藩主・細川護久の弟・長岡護美に従って上京した彦斎は、暗殺されることを気遣った長岡護美の助言で名を「高田源兵衛(こうだげんべい)」に改名し、この名前を用いるようになった。
佐久間象山の息子で新選組の隊士・佐久間恪二郎が、彦斎の命を狙っていると噂されたためである。
尊王攘夷の思想と共に、彦斎と一緒に命を賭けてきた同志たちが名を連ねる新政府だったが、この時、新政府にはもう攘夷の思想は無く、開国の準備が進められていた。
彦斎はこれを聞き愕然として桂小五郎や三条実美らと面会し議論したが、新政府の方針は変わらなかった。
そこで彦斎は勝海舟ら旧幕臣と連携しようと奮起するが、これも実現することはなかった。
あくまでも排外主義的な鎖国攘夷を要求する彦斎は、新政府から疎まれるようになってしまっていたのだ。
京都の要人たちは彦斎と会おうとはしなくなり、三条実美は「彦斎が生きているうちは枕を高くして寝られない」と側近に漏らしていたという。
彦斎は理想と現実の違いを思い知らされるのであった。
河上彦斎の最期
帰国した彦斎は藩命によって鶴崎に左遷させられ、そこで「有終館」という兵学校を設立し兵士の教育に勤めた。
海兵200人・陸兵100人が学び、彦斎は自ら兵法と学問の教鞭をとり、新境地で活動しようとしていたのである。
そんな彦斎のもとに、長州藩士・大楽源太郎(だいらくげんたろう)が訪ねてきた。
大楽源太郎は大村益次郎暗殺事件に関与して逃亡中の身でありながら、彦斎に明治政府の転覆を画策するクーデターのために力を貸して欲しいとやって来たのだ。
彦斎は有終館の兵を貸して欲しいと頼まれたが、「藩の兵を動かすことはできない」と拒否した。
しかし見捨てることはできず、大楽源太郎とその仲間を匿ってしまったのである。
これが藩の知るところとなり、彦斎は逮捕されてしまい、有終館もわずか2年で解体されることになってしまう。
裁判にかけられた彦斎は、大楽源太郎を匿ったことで二卿事件への関与や参議・広沢真臣暗殺事件の疑いもかけられて江戸送りとなった。
裁判の判事を務めたかつての同志は説得を試みたが彦斎はそれを拒否し、最後まで尊王攘夷の思想を曲げなかったという。
明治4年(1872年)12月4日、日本橋小伝馬町で斬首、享年37であった。
実際には大村・広沢の暗殺事件への関与は低かったが、新政府の方針に従わない危険な攘夷論者の反乱分子と見なされたため、処刑されたと考えられている。
(※彦斎ら勤皇派を封じ込めたい熊本藩の策略とする説もある)
人物像
彦斎は普段は礼儀正しい温和な人物だったそうであるが、反面平気で人を斬る残忍性も併せ持ち「人斬り彦斎」や「ヒラクチ(蝮蛇)の彦斎」などと呼ばれていた。
記録上に残る斬った人物は佐久間象山だけであり、いつどこで誰を斬ったか確証のある史料は残されてはいないが、その逸話の多さから人斬りを恒常的に行っていたとされている。
勝海舟は彦斎を「怖くて怖くてならなかった」と語っている。
ある人物に野心があるという会話をすると彦斎は「ハハ、そうですか」と、とぼけた返答をして後日、斬り殺して何事もなかったかのように戻ってきたという。喜怒哀楽がなく平坦としており、勝が「そんなにたくさん殺したら可哀想じゃねえか」と言うと、彦斎は「畑の胡瓜や茄子を良い加減の時にちぎるのと同じこと。アイツラは幾ら殺したからと言って、何でもありません」と返したという。
また、酒席で仲間がある横暴な幕吏の話をしたところ、黙って聞いていた彦斎が席を立った。しばらくするとその幕吏の血だらけの首を袖に抱えて戻ってきて、飲み直したという逸話も残っている。
この特徴は現代で言うまさにサイコパスである。彦斎に睨まれたら逃れられないことから、仲間からも気味悪がられていたという。
彦斎の斬り方は自己流で、右足を前に出してやや膝を曲げ、左足を膝が地面につくほど後ろに伸ばし、右手で斬るという剣法だったと言われている。
おわりに
河上彦斎は尊王攘夷の志士として激動の幕末時代を生きた人物だったが、倒幕後、新政府の要人となったかつての仲間たちが開国へと変わったことが許せなかった。
時勢によって思想や志を変えたかつての仲間たちに比べると、彦斎は頭が固すぎたのかもしれない。
最後まで信念を曲げず一本気な男だった彦斎は、明治の夜明けとともにこの世を去った。
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確かに斬り方はるろうに剣心の緋村抜刀斎と同じですね。
勝海舟は直新陰流の島田道場で鍛えられた免許皆伝、幕末の剣聖・男谷精一郎の甥がビビったった男ってどれほど?