徳川吉宗は1684年に御三家の1つ紀州藩に生まれた。暴れん坊将軍でも有名な将軍である。
紀州藩徳川光貞の4男として生まれたが、次兄は早世で残りの兄2人も病気で死去したため、22歳で紀州藩を継ぐことになった。
紀州藩主の時代には、悪化していた紀州藩の財政再建に成功した。
7代将軍家継が8才で早世し家光以来の直径の血が絶え、尾張、紀州、水戸の德川御三家の中から次期将軍を擁立することとなったが、筆頭の尾張家の当主、德川吉通とその子の五郎太も死去。6代将軍家宣の正室である天英院や家継の生母の月光院など大奥からも支持され、家康の曾孫である吉宗が8代将軍となった。
徳川吉宗は御三家の1つ紀州藩より将軍になった最初の人物であり、御台所(正室の呼称)から指名を受けた最初の将軍である。
ここでは、徳川吉宗の享保の改革を中心に改革政治の特徴を取り上げたい。この記事の終わりに享保の改革の結果と大奥の改革について取り上げる。
享保の改革
徳川吉宗と言えば改革の将軍で、享保の改革(きょうほうのかいかく)印象に残っている人が多いと思われる。
享保の改革の特徴をあげると、農業を中心とした改革と言えるのかもしれない。新田開発については、町人請負新田という町人に耕地の開墾を奨励したことによって、17世紀の耕地面積が約160万町歩から約300万町歩へと面積を拡大させている。
次に農民が負担する年貢だが、それまで年貢は検見法という方法で徴収していた。検見法とは米の収穫高に応じて年貢の負担率を決める方法である。吉宗の改革では、米を確実に徴収できるようにするために、収穫高に関係なく一定の割合を負担する定免法に切り替えた。吉宗の改革の前まで、四公六民で、40%分の米が徴収されたが、吉宗の改革では豊作と不作に関係なく、五公五民となり、半分の米が年貢として徴収された。
次に、広く民衆の意見を聞くために目安箱を設置した。この目安箱は匿名性で身分に関係なく投稿できることが特徴として挙げられる。目安箱の成果として江戸城内の小石川薬園内に小石川養生所という無料の医療施設を開設された。小石川養生所は現在、東京大学の植物園となっている。
※小石川養生所の井戸 出典 ZCU
吉宗の改革の特徴として、能力のある人物を積極的に採用したことが挙げられる。能力があるものの、役職に見合う石高が不足しているために役職に就けない人がいた。その問題を解決するために、役職に見合う石高を一時的に足して、役職を辞めるときに返還させる制度を設けた。
この制度を足高の制(たしだかのせい)いう。
足高の制の具体的な例として、農村の代官だった田中丘隅を抜擢して、農村の政治改革に貢献したことが挙げられる。他に、江戸町奉行の大岡忠相が挙げられる。大岡忠相はテレビの時代劇「大岡越前」の題材になった人物である。
※大岡忠相像、国立国会図書館蔵
最後に、享保の改革では裁判の基準を定めた公事方御定書や町火消しの制度など様々な改革に取り組んでいる。
享保の改革のときに飢饉が発生したため、飢饉に備えて1万石につき100石を献上する代わりに参勤交代の江戸在住期間を1年から半年にする上げ米の制を定めた。また、飢饉に備えて青木昆陽にはさつまいもの栽培の研究もさせている。
享保の大飢饉
享保の改革の最中に西日本を中心に飢饉が発生した。この飢饉を享保の大飢饉という。この飢饉を契機に打ちこわしや村方騒動が多発するようになり、改革は行き詰まったと言われている。
おわりに
吉宗は江戸幕府の出費を減らすために大奥の改革にも取り組んだ。
大奥の女中の生活が華美で質素倹約を求めるとともにリストラしたと言われている。リストラした女性は美人が多かった。吉宗が美人であればすぐに故郷に帰っても結婚できると考えたからだと伝えられている。
8代目将軍徳川吉宗の享保の改革は行き詰まったが、その後の政治改革については次回以降の記事で取り上げたい。
次回は9代目将軍徳川家重と10代目将軍徳川家治の政治について取り上げたい。
徳川15将軍シリーズ:
徳川家康【江戸幕府初代将軍】の生涯
徳川秀忠【徳川2代目将軍】―意外に実力者だった
徳川家光【徳川3代目将軍】―幕藩体制確立を目指して
徳川家綱【徳川4代目将軍】―武断政治から文治政治への転換
徳川綱吉【徳川5代目将軍】ー学問を奨励と生類憐みの令
徳川家宣・徳川家継【徳川6、7代目将軍】ー新井白石による政治改革
徳川吉宗【徳川8代目将軍】ー享保の改革
徳川家重〜家治【德川9〜10代目将軍】と田沼意次の政治
徳川家斉【徳川11代目将軍】松平忠信による寛政の改革
寛政の改革後の徳川家斉【化政文化】
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