8代将軍徳川吉宗は亡くなるまで9代将軍徳川家重(いえしげ)の大御所として実権を握った。
家重は生まれつき病弱で言語不明瞭であったことから、老中の田沼意次(たぬまおきつぐ)が実権を握ったと言われている。
家重が10代将軍徳川家治(いえはる)に将軍職を譲った後も田沼意次が実権を握っていた。
ここでは、最初に9代将軍徳川家重と10代将軍徳川家治について取り上げる。次に、田沼意次による政治の特徴と蝦夷地の探検の開始について取り上げたい。
9代将軍徳川家重と10代将軍徳川家治
徳川家重は8代将軍徳川吉宗の長男である。
家重は1712年に紀州藩で生まれたが、生まれつき病弱で言語不明瞭であった。家重は言語不明瞭で虚弱体質であったこと、能楽に興じていて武芸に関心を示さなかったことから将軍に不適格であるという評価をする者が多かった。
一方で、弟の徳川(田安)宗武は聡明で武芸に秀でていた人物であったことから弟の宗武を将軍に推す動きが見られた。吉宗は宗武を将軍にすると争いが起こる可能性があると判断し、宗武を推す老中たちを解任した。
その後、家重が就任すると、老中田沼意次が政治の実権を握り、商業を重視した田沼政治が始まる。
宝暦11年(1761年)6月12日に家重は息子の家治を田沼意次に託し、51歳で死去した。
徳川家治は1760年に江戸城で生まれた。
父徳川家重とは対照的に、家治は健康で聡明であったと言われている。祖父にあたる吉宗は家治を寵愛し、直接様々な指導をおこなっていた。家治聡明ではあったが政治は田沼に任せ、本人は趣味(鷹狩や将棋、書画)に没頭していたようである。
と言っても無能というわけではなく、適材適所をよく心得ており、祖父吉宗以上に質素倹約に努め、大奥の経費も削減している。家臣にも優しく側室をなかなか持たなかったほどの愛妻家でもあった。
家治には長男がいたが、ある日鷹狩から江戸に戻る際、急病で死亡した。当時の長男の年齢は18歳で、将軍の跡継ぎを決めなければならなかったため、急遽吉宗が創設した一橋家・田安家、家重が創設した清水家の御三卿より跡継ぎを選ぼうとした。
天明6年(1786年)8月25日に50歳で死去する。死因は脚気衝心と推定されている。
御三卿の中から選ばれたのが一橋家の徳川家斉で、後に家治の跡を継いで11代将軍になる。
田沼意次の政治
田沼意次(たぬまおきつぐ)は1719年に生まれた。
父は当時紀州藩の藩主だった徳川吉宗の足軽として仕えていた。田沼家は吉宗が将軍になるのをきっかけに江戸に移り住み、意次は9代目将軍徳川家重の小姓として将軍に仕えた。その後、10代目将軍徳川家治の側用人となり、旗本、大名、老中へと出世した人物である。
8代将軍徳川吉宗は農業を中心とした改革で米将軍とか八木将軍と呼ばれていた。それに対して、老中田沼意次の政策は商業を重視していて、田沼時代と呼ばれている。
田沼時代の政策の特徴として、株仲間の結成を奨励したことが挙げられる。
株仲間とは幕府や諸藩から営業の独占権を与えられた商工業者の同業組織である。株仲間の目的は競争防止と利益保護である。株仲間を奨励することによって、商人から税率一定の営業税である運上金と商工業者の営業免許税である冥加金を徴収した。これらの営業税を徴収することによって幕府の財政の立て直しを図ろうとした。
商業政策については幕府が貿易を統制する専売制にすることによって収入増大を図ろうとした。
専売制でできた座について取り上げたい。最初に銅座が挙げられる。銅座とは銅の精錬・売買をつかさどる座である。他に、真鍮の精錬・売買を行う真鍮座、粗悪な薬用ニンジンの流入を防ぐために設けた(朝鮮)人参座、鉄の専売を行う鉄座が設けられた。これらの座については、人参座を除いて田沼政治の後の改革である寛政の改革で廃止された。
田沼政治の特徴として商業以外では公共事業が挙げられる。
公共事業の一環として、利根川水系の手賀沼と印旛沼の干拓事業をおこなった。手賀沼と印旛沼の干拓事業については商業資本を導入して新田開発を行ったが、利根川水系の洪水により失敗に終わった。
田沼時代から蝦夷地の探検が始まる。蝦夷地はアイヌ民族が住んでいた。当時江戸幕府が支配していたのは松前藩(渡島半島までで、函館の五稜郭が拠点)で、渡島半島より先は支配していなかった。
田沼意次が老中になったころからロシアが日本に来航し始めるようになった。仙台藩医の工藤平助が『赤蝦夷風説考』を著した。
『赤蝦夷風説考』とは松前藩より北の蝦夷地の現状と開発・ロシアとの貿易の可能性について触れた著書である。
この著書を田沼意次に献上したことで、田沼は蝦夷地に関心を持ったと言われている。
工藤平助の進言を受けて、田沼意次は蝦夷地の探検に最上徳内を派遣し、北海道の根室・厚岸の調査を行った。北海道だけでなく、千島列島の探検も行っている。
田沼政治の結果
田沼政治は商業を中心とした政治で、税収が増えたと言われていることから成果はあったと考えられる。しかし公共事業や蝦夷地探検を始めたころに浅間山が噴火し、農作物が不作になり、飢饉が発生した。この飢饉のことを天明の大飢饉という。
この大飢饉だけでなく、息子で若年寄の田沼意知が江戸城内で切り付けられ死亡した。
その後、10代将軍徳川家治が死去したことに伴い、田沼意次は失脚した。田沼意次が失脚したことに伴い、蝦夷地の探検とロシアとの貿易についてはいったん白紙になった。
次回は、田沼意次が失脚した後に将軍になった11代目徳川家斉と老中松平定信の政治について取り上げたい。
徳川15将軍シリーズ:
徳川家康【江戸幕府初代将軍】の生涯
徳川秀忠【徳川2代目将軍】―意外に実力者だった
徳川家光【徳川3代目将軍】―幕藩体制確立を目指して
徳川家綱【徳川4代目将軍】―武断政治から文治政治への転換
徳川綱吉【徳川5代目将軍】ー学問を奨励と生類憐みの令
徳川家宣・徳川家継【徳川6、7代目将軍】ー新井白石による政治改革
徳川吉宗【徳川8代目将軍】ー享保の改革
徳川家重〜家治【德川9〜10代目将軍】と田沼意次の政治
徳川家斉【徳川11代目将軍】松平忠信による寛政の改革
寛政の改革後の徳川家斉【化政文化】
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