忠臣蔵という時代劇はご存知だろうか。
主君の仇を討つため藩をお取り壊しになった家臣たちが無念を晴らすという物語だが、その主君である浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)に関しては、松の廊下で刀傷沙汰を起こした人物としか認知されていない感じが拭いえない。
今回は少しでも理解を深めてもらいたいため、長矩について触れてみて、どのような人生を歩んできたのか探ってみたいと思う。
幼くして赤穂藩藩主に
浅野長矩(あさのながのり)は寛文7年(1667)に江戸の鉄砲州(現在の東京都中央区)で生まれた。
父は浅野長友、正室は大石たちの吉良邸討ち入りを支援した搖泉院(ようぜいいん)。幼名は祖父、父と同じ又一郎である。
長矩は延宝3年(1675)、父、長友の病死と共に3代目赤穂藩主となった。まだ9歳の長矩であったが、母は父より先に亡くなっており、幼少期にして父母のいない人生を送ることとなった。
それでも大石良重の支えもあり政務を行い、同年には正室となる搖泉院(ようぜんいん)との縁組が決まり、延宝6年には長矩のいる鉄砲州の浅野家屋敷に移っている。そして、延宝8年(1680)の14歳の時、従五位下に任ぜられ、同年には長矩の通称となる内匠頭の官職を与えられた。この内匠頭の官職は祖父である長直も与えられている。
天和元年(1681)には幕府より江戸橋神田橋御番を拝命。そして儒学者である山鹿素行(やまがそこう)から山鹿流兵学を学んでいる。
翌年には朝鮮通信使饗応役に選ばれ、長矩は来日した朝鮮通信使を伊豆三島にて饗応(江戸に下向してきた使者を接待すること)した。
勅使饗応役に拝命する
元和3年(1683)に霊元天皇の勅使(ちょくし: 天皇が出す使者)である花山院定誠と千種有能を、饗応(きょうおう: 酒や食事を出してもてなす)する勅使饗応役(ちょくしきょうおうやく)に命じられた。
この時の指南役が高家出身の吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)であり、ここで初めて長矩は義央と出会うことになる。
勅使饗応役が無事終えると同年5月に搖泉院と正式に結婚する。めでたい雰囲気の中、長矩を幼少から支えた大石良重が亡くなった。この時に実権は長矩に移るかと思いきや良重に次ぐ家老である大野知房に移っていった。
そして6月には初めて赤穂に入り、大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしお)と対面する。これ以降参勤交代で長矩は江戸と赤穂を行き来することになる。
元禄3年(1691)に長矩は火消し大名として任命されるが、元禄8年(1696)に疱瘡(ほうそう)をわずらい、生死の境をさまようことになった。その後、容態は安定していき翌年には完治する。
疱瘡から回復した長矩は火消し大名として活躍し、その活躍から本所材木蔵火番、再び神田橋御番、桜田門御番と転身していき、元禄14年(1701)には再度、勅使饗応役に拝命されることになる。指南役は前回と同じく吉良上野介義央である。
松の廊下での刀傷沙汰
元禄14年(1701)の3月14日、前日まで勅使饗応役としての役目を無事に果たしていた長矩は、江戸城の松の廊下で梶川頼照(かじかわよりてる)打ち合わせをしていた吉良上野介義央にいきなり脇差で切り付けた。
この日は江戸幕府将軍が勅使より先に下されている天皇の考えに対して答える儀式である勅答の儀が行われる、一年間の行事の中で最も格式が高いと位置づけられている日であった。
その時、居合わせた梶川頼照が書いた『梶川日記』には「この間の遺恨忘れたるか」と叫んだとされている。
その後は、頼照らに取り押さえられ義央を殺害することは出来ずに長矩は連行されてしまった。
切り付けた理由は諸説あり、勅使饗応役の予算を浅野家が出し惜しみしたことや浅野家秘蔵の茶器を義央が欲しがったが長矩が断ったことや、義央の賄賂要求を拒否したなどある。そして、それらに対して長矩が義央に辱められた怒りが積もり積もって短気な性格の長矩の火をつけてしまい、このような沙汰に及んだとされている。
捕らえられ、取り調べを受けた長矩は義央に個人的遺恨があって切り付けたことは認めたが、動機や経緯は明かすことはなかった。
その後は奏者番の田村建顕の屋敷にお預けとなった。長矩護送中に江戸城に居た江戸幕府5代将軍徳川綱吉は勅答の儀を台無しにされたことで激怒し、長矩の即日切腹と赤穂浅野家5万石の取り潰しを決定した。
この決定に対し若年寄の加藤明英や稲垣重富らが義央にも落ち度があるのではないかと思い、慎重な取り調べをするように求めたが、側用人の柳沢吉保は綱吉への取次ぎを拒否したため、長矩の切腹は確定してしまった。
浅野長矩 切腹
田村邸に着いた長矩はまず、大紋を脱がされた。その後は湯漬けを2杯食べ大久保忠鎮に長矩の切腹と赤穂藩の改易を言い渡された。
言い終わると切腹の間に移され磯田武太夫の介錯の元、切腹し35年の人生を終えた。
切腹後は浅野家家臣が遺体を引き取り、長矩は高輪にある泉岳寺に埋葬された。
長矩の死後1年後の元禄15年(1703)に大石内蔵助良雄らによって義央が討たれる赤穂事件が起こるのである。
最後に
幼くして苦労した長矩であったが、それでも若くして多くの役職を拝命されるなど優秀な人物であったことがわかる。
しかし、長矩の性格である短気が祟ってしまい、その後の人生を大きく転落させてしまうことは何とも損していると感じてしまう。
「短気は損気」とはこのことだと思わざるをえない。
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