家康の悩み
天下分け目の戦いと言われた「関ヶ原の戦い」に勝利した徳川家康は、それで天下を取ったイメージがあるが、実は「関ヶ原の戦い」は豊臣恩顧の大名たちの武断派と文治派の争いという側面が強い。
家康は五奉行筆頭であった石田三成を蟄居させ、武断派の大名の代表格である福島正則らを引き込むことに成功。彼らは三成に敵対していただけで家康ではなく豊臣秀頼に忠誠を誓っていた。
家康は征夷大将軍に就任し、たった2年で嫡男・秀忠にその座を譲ったことで、幕府(天下)は徳川家の世襲制であることを宣言した。
ただ、家康には「豊臣家という一族をどのように扱うのか?」という最大の悩み事があった。
徳川幕府を継続するためには、秀頼を上洛させて徳川家に臣従させることが必要であった。
家康も当初は豊臣家を滅ぼす気はなかったと言われているが、その考えはある会見で明確に変わるのだ。
家康の天下取りへの最終決心となった二条城会見について検証してみた。
天下取りの流れ
戦国の覇王・織田信長が本能寺の変で自刃、信長の後継者である嫡男・信忠もその時自害した。その後、豊臣秀吉が宿敵を次々と倒し、徳川家康との駆け引きを制して天下人へと駆け上がった。
信長の次男・信雄や三男・信孝は秀吉の力に抑えられ、信忠の子・三法師はまだ幼く出る幕がなく、秀吉は実力で「天下取り」を勝ち取った。
天下取りはある意味では「椅子取りゲーム」のようなもので、秀吉がその椅子に座れたのは信長が天下を取る前に亡くなったからだ。
しかし、家康の場合はその椅子に座る状況が、秀吉とは少し勝手が違っていた。
秀吉は死ぬ前にしっかりとその椅子に「豊臣秀頼」と書いたのである。
亡くなる前に五大老・五奉行に「秀頼のことを頼む」と何度もお願いし、諸大名に起請文まで書かせ「後継者は秀頼だ」と念を押したのだ。
五大老筆頭の家康は、秀吉から当時6歳の秀頼が成人となる15歳になるまで、その椅子を「仮掛け」としても良いという許可を与えられていたに過ぎない。
しかし、天下取りを狙う家康は「徳川家専用」の椅子に作り替えようと、用意周到に3つの大きな作戦を立てたのである。
家康の作戦
1つ目
慶長5年(1600年)9月の天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」に勝利した家康は石田三成らを倒し、豊臣恩顧の大名である福島正則・黒田長政らを引き込むことに成功する。
ただ前述したとおり、彼らは三成に敵対していただけで、家康ではなく秀頼に忠誠を誓っていた。
そこで家康が考えたのは関白継承の否定である。生前の秀吉は征夷大将軍ではなく関白に就任。この関白は誰もが秀吉の後継者である秀頼が継承すると考えていた。
これに目をつけた家康は「関白は豊臣一族が世襲する」という暗黙のルールの破棄を目論み、慶長5年(1600年)12月に九条兼孝を関白にして関白職を摂関家へと戻すことに成功した。
2つ目
慶長8年(1603年)2月、征夷大将軍になった家康はこのタイミングで本姓を「源氏」に改姓。源頼朝と同じ源氏姓にすることで伝統と将軍就任の正当性を意識させた。
秀吉は生前に有力大名に「羽柴」姓を与えていたので、今度は家康が諸大名に家康自身の「松平」姓を与え、加賀の前田利常を始め代替わりした有力大名たちが続々と「松平」姓を名乗ることになる。
これまでの「豊臣体制」からの離脱を、諸大名に向けて明言したのだ。
3つ目
3つ目は、家康と秀頼の関係の強化である。慶長8年(1603年)7月、亡き秀吉の願いでもあった家康の孫(秀忠の長女)・千姫(7歳)が11歳の秀頼に輿入れしたのである。
これで家康は秀頼の大舅(おおしゅうと)の立場となり、秀頼の「後見人」と「大舅」という2つの地位を得た。
秀頼の関白就任を否定し秀頼の大舅という立場になった家康は、最後の一手として慶長10年(1605年)4月、将軍職を秀忠に譲り、徳川家の世襲制を全国に宣言した。
家康は豊臣・徳川の二重政権の微妙な時期に、秀頼を立てつつ徳川家だけの政権移行を模索し、まんまと秀忠へそのバトンを渡すことに成功する。
淀殿の意地
家康は徳川家の世襲を宣言したものの「豊臣家をどうしたものか?」と頭を悩ませたに違いない。
秀吉は織田家の一族を滅亡に追い込むことはしなかった。それは秀吉が信長に取り立ててもらったという大恩があったからだ。
しかし、家康には秀吉に恩はなく、決定的な上下関係の確立(秀頼が徳川家に臣従)が先だと決断する。
秀頼の徳川家への臣従を諸大名の前で明らかにさせる絶好のタイミングが、慶長10年(1605年)4月に訪れた。
家康は秀忠に将軍職を譲り将軍宣下を受けるために上洛することになったのである。秀忠の将軍職就任には譜代・外様の大名40名以上が付き従った。
ここで秀頼に臣従させるのが最高のタイミングであった。
将軍就任祝賀という名目で家康は秀頼に上洛を要望。その交渉役は秀吉の正室であった高台院(北政所・ねね)にお願いした。
高台院も、豊臣家存続のためには臣従もやむなしと判断してその仲介を受けたが、これに激怒したのが秀頼の母・淀殿である。
秀忠が将軍職に就任する4日前に、当時13歳の秀頼は右大臣になることが決定していた。
淀殿からすれば、家康は天下人ではなくまだ秀頼の後見人なのである。
既に徳川家の時代が到来しているとは理解できない、いや、それを認めたくはなかったのだろう。
淀殿は「秀頼が上洛するのであれば、秀頼を自害させて自分も自害する」と拒絶したため、家康と秀頼の会見は流れてしまった。
加藤清正の忠臣
1度目の上洛は拒絶されたが、家康は再度の機会を待っていた。
慶長16年(1611年)3月、その機会がようやく訪れる。後陽成天皇の譲位に関連して上洛した家康は秀頼の参上を要求した。場所は京都の二条城で秀頼に対して臣従を突きつけたのである。
これを説得したのは加藤清正・浅野幸長・片桐且元など豊臣恩顧の諸大名らで、彼らは豊臣家の存続を願う者たちであった。
特に秀吉子飼いの忠臣・加藤清正は
「このたび秀頼公がご上京なさらなければ、世の中は心の弱い君と申してご威光を失ってしまうでありましょう。(中略)拙者は終始御輿に付き添い、また二条城においても万一の謀計などがあれば、幾万人の兵がいようとも、片端から蹴殺して、再びこの城にお連れ申します」
と説得し、秀頼は二条城会見を承諾した。
二条城会見が決定すると家康は先に手を回した。秀頼の上洛に際して諸大名らに出迎えを禁じたのである。
そのため、京都の入り口で出迎えた大名は加藤清正・浅野幸長・藤堂高虎・池田輝政の4名のみとなった。秀頼には従う大名が少ないのだと周囲や秀頼自身に自覚させたい狙いがあったという。
会見に向けての行列が始まり、加藤清正・浅野幸長は伏見から徒歩で付き従った。
万が一のために300の兵を隠して伏見に留め、残り200の兵は京都の中を徘徊させていた。
予め急変時の合図を決めておき、その場合は一気に加勢するそういう算段であった。
二条城会見
慶長16年(1611年)3月28日、秀頼が二条城に入る際も、御輿の両脇には加藤清正と浅野幸長が変わらず警護した。付き従った足軽たちもただの兵卒ではなく、ひとかどの武士たちが足軽として二条城に入った。
この二条城会見は、家康が秀頼を呼びつけ臣従を迫ったイメージが強いが、外面的には違っていた。
出だしから家康は秀頼を丁寧に庭先まで出迎え、その場にいた30名ほどの大名たちも玄関脇の白洲で平伏していた。
家康は慶長8年(1603年)の新年の賀を最後に秀頼と会っていなかった。その時秀頼は11歳、二条城会見では19歳で、8年の歳月が過ぎていた。
家康からしてみれば「あの分からず屋の淀殿の息子、しかもあまり風貌が良くなかった秀吉の息子、信長に猿と呼ばれた小男の子供」というイメージを持っていただろう。
しかし、御輿から降り立った秀頼は予想を大きく裏切る偉丈夫、つまり、大きな体の青年だった。
一説には秀頼の身長は六尺(約180cm)を有に超えており、190cm近くあったとも言われている。
実は淀殿は当時の女性の中ではかなり背が高い167cmであり、その息子が190cmを超えていても不思議ではなかった。
誰もが驚愕と混乱に陥る中、秀頼は落ち着いて威風堂々と太刀を重臣・木村重成に持たせて歩を進めた。
ちなみに、この太刀を持った木村重成も今で言うイケメン武将であり、毎日大坂城に仕える女官たちからラブレターが届いたというモテ男として有名だった。
秀頼と重成の2人が歩くと、大坂城はそこだけ光輝いていたというほど評判だった。
秀頼は堂々とした風格と態度、涼やかな佇まいで、一挙手一投足が目を見張るものであったという。
その姿に驚いた家康は庭先で出迎えた後、館へは先に入り、その後を秀頼が続くという順番であった。
家康は二条城の中でも最高の座敷となる「御成の間(おなりのま)」へ秀頼を通し、対等な挨拶を促す。
しかし、秀頼はこれを固辞した。淀殿とは異なり秀頼は「家康は年長者であり大舅である」と、自らの立場をわきまえていたのだ。
こうして家康が「御成の間」に入り、家康が上席になっての挨拶となった。
会見の宴席は吸い物のみ。これは秀頼に色々気遣いがないようにと配慮されてのものだった。
「三献の祝い」が行われ、家康の近習・秋元泰朝が媒酌を務め、家康から秀頼に盃が注がれ、大左文字の刀と脇差が贈られた。
秀頼も返杯して一文字の刀と左文字の脇差を贈り、会見は2時間ほどで終了した。
加藤清正は饗応の席にはつかずに秀頼の隣に控えていた。宴席には高台院の姿もあり、秀頼の傍らで相伴したという。
「御成の間」での突発的なことにも動じず、立ち振る舞いも見事、立派に成長した秀頼を前に家康は
「天下人だけが自然と身にまとえる悠揚迫らぬものを持っていると二言三言会話してみて分かった、その賢さにも舌を巻き、さすがの家康も気圧された」
と話している。
大坂の万民、京都や堺あたりの畿内の庶民らも、会見が何事もなく終わったことに喜び、天下泰平を祝ったという。
その後
二条城での会見の直後、家康は西国の諸大名に幕府に対する起請文を出させ、翌年には東国の諸大名にも出させている。
立派に成長した秀頼を目の当たりにし、その才を感じ取った家康だが、皮肉にも二条城会見は豊臣家の運命を決めるものとなった。
秀頼の存在を脅威と感じた家康は、加藤清ら豊臣恩顧の大名たちが相次いで亡くなると「方広寺鐘銘事件」そして「大坂の陣」へと豊臣家滅亡に向けて動き出すのであった。
おわりに
家康が豊臣家を滅ぼす決心をした理由は、二条城で立派に成長した秀頼を見たからだけではない。
秀頼に対する周囲の期待も大きかった。会見の時に家康は70歳を超えていたが、秀頼は19歳。その若さは眩し過ぎるほどで、秀頼には周囲が期待熱狂していた。
家康は会見の当日、付き従っていた加藤清正に刀を与えたが、その時に清正は家康と目を合わさずに虚空に目を向けて頂戴したという。
後から調べるとその方向には霊峰・愛宕山(あたごやま)があり、清正は密かに「二条城で秀頼に災難がないように」と17日間護摩を焚いて祈願していたという。その忠義に家康は感心したが、同時に危機感も募らせただろう。
秀頼にその気がなくても周囲がそれを許さない。祀り上げられる秀頼の存在は徳川家には大きな脅威だったのである。
当時70歳を超えた家康は息子・秀忠に将軍職を譲ったことで全国に将軍職は徳川家の世襲だと知らしめた。
しかし、この二条城会見で身長190cmを有に超え、武将としての光輝く才を見た家康は猿と呼ばれた秀吉の息子だとある意味大したことない坊ちゃんだと思っていたのが、完全に覆された。
献身的に仕える加藤清正と浅野幸長の姿を見て、豊臣恩顧の大名たちが秀頼のもとに結束した時を思うと恐怖さえ感じたそんな大事な会見だったと思う。
TVドラマなどで秀頼は大概お坊ちゃまって感じだけど、実は違うんですね、だってこの会見後、家康は大坂の陣をしたのでしょう、秀頼は老練な家康が「こいつは秀忠より天下人だ」と認めたということですよね。
草の実堂さんありがとう、イメージが変わりました。