江戸時代

日本地図を作った男・伊能忠敬 「緯度の誤差は千分の一」

伊能忠敬とは

伊能忠敬(いのうただたか)は、江戸時代に日本の歴史上初めて科学的な測量を全国に渡って組織的・統一的に行い、日本全土の精密な地図を作成した人物である。

商人として成功し莫大な資産を築いた忠敬は、49歳で息子に家督を譲って隠居し、元々学問が好きだったため江戸に出て天文学を本格的に学んだ。
天文観測に明け暮れた忠敬は、自分の抱いた疑問を解消するために蝦夷地(北海道)と江戸との距離を測ることになった。

ちょうどその頃、蝦夷地にロシアなどの外国船が出没するようになり、幕府が危機感を抱いていたため、忠敬に蝦夷地の地形(地図)を作らせることで両者の思惑が一致した。

55歳で蝦夷地の測量と地図作りという第2の人生に取り組み、日本全土の精密な地図を作った男・伊能忠敬について解説する。

村の名士だった伊能忠敬

日本地図を作った男・伊能忠敬

伊能忠敬銅像(香取市佐原公園

伊能忠敬は、延享2年(1745年)に上総国山辺郡小関村(現在の千葉県九十九里町小関)の名主・小関五郎左衛門家で生まれ、父の神保貞恒は小関家に婿入りし、忠敬は幼名を三治郎と言い、他に兄と姉がいて末っ子であった。

6歳の時に母が亡くなったため、家は叔父(母の弟)が継ぎ、婿養子だった父は兄と姉を連れて実家に戻ったが、三治郎だけは祖父母のもとに残った。
名主の家に残ったことで、読み書きやそろばんなどの教養も教え込まれたが、10歳の時に父のもとに引き取られた。

神保家での三治郎の詳細は文献が少ない。親戚のもとを転々としていたが、そろばんで優れた才能を見せ、17歳の時には土浦の医者から医学を教わったという記録があるが、この時に習った医学は専門的なものではなかったという。

下総国香取郡佐原村(現在の千葉県香取市佐原)にある酒造家を営む伊能家が、当時跡取りとして婿を探していた。
伊能家と神保家の両方の親戚・平山藤右衛門が土地改良の現場監督として三治郎を使ったところ、素晴らしい仕事ぶりだったため伊能家の跡取りへと薦められ親族も了承した。

宝暦12年(1762年)17歳の時に伊能家のミチと結婚。大学頭の林鳳谷から「忠敬(ただたか)」という名をもらい、正式に伊能家に入って伊能忠敬となった。

忠敬がいた佐原村は天領で武士は1人も住んではおらず、村政は村民の自治で決められていた。永沢家と忠敬の伊能家は経済力が大きく村全体での発言権を持っていた。

伊能家は酒・醤油の醸造や貸金業を営み、その他に利根川水運などに関わっており、忠敬は商才を発揮して49歳で隠居した時には家産が3万両(現在の価値で30億円以上)にまでなっていた。

家業に精を出した忠敬であったが、学問についてもその情熱を失わず、家業の合間に天文学の勉強などを行っていた。

佐原村の名主として村政に携わり、飢饉の時には救恤米(きゅうじゅつまい)を出したことで、商人でありながら領主から苗字帯刀を許されている。
また、後の地図作成事業を彷彿させるような利根川の地図を作り、治水・利水事業にも関わっていた。

天文学を学ぶ

忠敬は49歳で息子に家督を譲って隠居し、江戸に出て深川に隠宅を構え、幕府天文方(現在の国立天文台長に相当)である高橋至時(たかはしよしとき)の門弟となり、天文学を本格的に学んだ。

師・高橋至時は当時日本の天文学の第一人者で、西洋の天文学にも精通し、改暦を行った人物であった。
忠敬は隠宅に本格的な天文観測施設を整備し、至時から学ぶと共に恒星の高度角の観測など専門的な天文観測にのめり込んだ。

そのうち、地球の大きさを知りたいと思うようになった忠敬は子午線1度の長さを求めるために、隠宅と天文方役所(暦局)の距離と包囲角を「導線法(トラバース測量)」によって測量した。

これにより得られた隠宅と暦局の間の距離を、子午線1度の長さに換算して至時に報告したが、このような短距離では誤差が大き過ぎると言われた。
少なくても蝦夷地(北海道)まで赴いて江戸との距離を測る必要があると至時に提案され、忠敬は蝦夷地測量を志願した。

しかし、当時は幕府の許可がないと蝦夷地まで行くことが出来なかった。

だがこの頃、ロシアなどの外国船が蝦夷地近海に出没するようになり、幕府は危機感を抱いていた。

そこで至時は「地図を作り蝦夷地の地形を明らかにする」という名目で幕府に許可を求め、忠敬の測量が許可されることになった。

忠敬には1日銀7匁5分(現在の価値で約1万円)が支給され、いわば幕府の補助事業となったが、ほとんどの経費は忠敬が自分で負担して測量することになった。

蝦夷地の測量

日本地図を作った男・伊能忠敬

大日本沿海輿地全図、北海道地方

寛政12年(1800年)閏4月19日、忠敬は自宅から蝦夷地に向けて出発した。この時忠敬の年齢は55歳であり、内弟子(息子の秀蔵を含む)3人と下男2人を連れた総勢6人での測量となった。(第一次測量)

奥州街道を北上しながら測量を始め、距離は歩測で測り、歩幅は約69cmで1日におよそ40kmを移動した。

出発して21日目の5月10日に津軽半島の最北端に到達。船で箱館に向かう予定だったが風の影響で箱館にはつかず、松前半島南端の吉岡に船をつけ歩いて箱館に向い、5月29日に箱館を出発し歩側で海岸沿いを測量しながら進み、夜は天体観測を行った。

海岸沿いを通れない時は山越えをして進んだが、蝦夷地の道は険しく歩側すらままならないところも多かった。

宿がなかったために宿泊は会所や役人の仮家を利用し、様似町からえりも町に向かったが襟裳岬の先端までは行くことが出来ずに近くを横断して東に向い、釧路を経て歩きと船で根室に到着。測量を続ける予定だったが、鮭漁の最盛期で船を出すことが出来ないと言われたためにそのまま引き返した。

同じ道を測量しながら帰路につき、9月18日に蝦夷地を離れ10月21日に千住に到着した。
第一次測量にかかった日数は180日、そのうち蝦夷地滞在は117日であった。

蝦夷地滞在中に間宮林蔵に会って弟子にしたという。

日本地図を作った男・伊能忠敬

間宮林蔵

11月上旬から測量データをもとに地図の製作にかかり、約20日間で地図を完成させて12月21日に下勘定所に提出した。

12月29日に測量の手当として1日銀7匁5分の180日分で合計22両2分を受取ったが、忠敬は測量に出る時に100両を持参しており、戻って来た時には1分しかなかったというから差し引き70両以上を個人で負担し(現在の金額にすると1,200万円以上)、ほかに測量器具代として70両をやはり自分で払っていた。

資産家であった忠敬ではないと出来ない測量と地図作りであったが、師の至時は「蝦夷地で大方位盤を使わなかったのは残念だ」としながら測量自体は高く評価した。(※測量器具を運ぶ馬は1頭しか使うことを許されなかった

日本地図を作った男・伊能忠敬

伊能忠敬が使用していた大・中方位盤。大谷亮吉著『伊能忠敬』

忠敬が当初の目的とした子午線1度の距離を忠敬は「27里余」と求めたが、これに対する至時の反応は残されていない。

第二次~第四次測量

忠敬が蝦夷地測量で作成した地図は高い評価を得て、若年寄・堀田正敦の知るところとなり、正敦と親しかった仙台藩医・桑原隆朝を中心に第二次測量の計画が立てられた。

当初の計画は、宿泊が出来ない蝦夷地での宿泊を見越して途中で船を買い、測量が終わると船を売る予定だったが、最終的に蝦夷地は測量せずに伊豆半島以東の本州東海岸を測量することとなり、手当は少し上がって1日銀10匁となった。
また、道中奉行や勘定奉行から先触れが出るようになり、現地の村の人々の協力を得ることも可能になった。

今回からは歩側ではなく間縄(けんなわ)を使って距離を測ることになった。

日本地図を作った男・伊能忠敬

銚子測量記念碑 wiki c アリオト

享和元年(1801年)第二次測量として、三浦半島~伊豆半島~房総半島~東北地方太平洋沿岸~津軽半島~奥州街道と230日間に及び、忠敬は子午線1度を「28.2里」と導き出した。

享和2年(1802年)第三次測量として、奥州街道~山形~秋田~津軽半島~東北日本海沿岸~直江津~長野~中山道と132日間。

享和3年(1803年)第四次測量として、東海道~沼津~太平洋沿岸~名古屋~敦賀~北陸沿岸~佐渡~長岡~中山道と219日間。

こうして忠敬は第一次から第四次までの測量結果で東日本の地図を作る作業に取り組み、文化元年(1804年)に大図69枚、中図3枚、小図1枚からなる「日本東半部沿海地図」としてまとめ上げた。

この地図は、同年9月6日に江戸城大広間でつなぎ合わされて11代将軍・徳川家斉の上覧を受けた。

忠敬の地図を初めて見た家斉はその見事な出来栄えを賞賛し、9月10日に忠敬は堀田正敦から小普請組10人扶持を与えるという通知を受け取った。

つまり、忠敬はこれにより幕府の旗本という地位になったのだ。

第五次~第十次測量

元々忠敬は東日本の測量だけという約束であったが、西日本の測量も受け持つことになった。
西日本の測量は幕府の直轄事業となり、費用も幕府が負担した。

そのため測量隊員には幕府の天文方も加わり人数が増え、測量先での藩の受け入れ態勢も強化され、これまで以上の協力が得られるようになった。

日本地図を作った男・伊能忠敬

大日本沿海輿地全図 (レプリカ)。琵琶湖周辺。wiki c Hatukanezumi

文化2年(1805年)第五次測量として、東海道~紀伊半島~大坂~琵琶湖~瀬戸内海沿岸~下関~山陰沿岸~隠岐~敦賀~琵琶湖~東海道。

文化5年(1808年)第六次測量として、東海道~大坂~鳴門~高知~松山~高松~淡路島~大坂~吉野~伊勢~東海道。

文化6年(1809年)第七次測量として、中山道~岐阜~大津~山陽道~小倉~九州東海岸~鹿児島~天草~熊本~大分~小倉~萩~中国内陸部~名古屋~甲州街道。

文化8年(1811年)第八次測量として、甲府~小倉~鹿児島~屋久島~種子島~九州内陸部~長崎~壱岐~対馬~五島~中国内陸部~京都~高山~飯山~川越。

文化12年(1815年)第九次測量は島を巡るために忠敬は参加せず、東海道~三島~下田~八丈島~御蔵島~三宅島~神津島~新島~利島~大島~伊豆半島東岸~八王子~熊谷~江戸であった。

文化13年(1815年)第十次測量として江戸府内。本来江戸は防衛の関係上測量は許されなかったが、今回の測量は各街道から日本橋までの間を測量して起点を1つにまとめることが目的で、忠敬も参加した。

測量を終えた忠敬は、昔に測った東日本の測量は西日本の測量と比べて見劣りがすると感じ、もう一度やり直す計画を立てたが幕府には採用されなかった。

日本地図作成作業

測量作業を終えた忠敬らは、八丁堀の屋敷で最終的な地図の作成作業に取りかかった。
この時、蝦夷で弟子となった間宮林蔵が、忠敬の測量していなかった蝦夷地の測量データを持って現れたという。

当初文化14年(1817年)の暮れには終わらせる予定であったが、作業は大幅に遅れてしまった。

忠敬は、文化14年の秋頃から喘息がひどくなり病床につくようになり、それでも年内は地図作成作業を監督していたが、文政元年(1818年)になると急に体が衰え、4月13日に弟子たちに見守られながら74歳の生涯を終えた。

地図がまだ完成していなかったために忠敬の死は隠され、弟子たちが地図の作成作業を進めた。

文政4年(1821年)7月、「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」と名付けられた地図がようやく完成。

日本地図を作った男・伊能忠敬

『大日本沿海輿地全図』第90図 武蔵・下総・相模(武蔵・利根川口・東京・小仏・下総・相模・鶴間村)

大日本沿海輿地全図は通称「伊能図」とも呼ばれ、忠敬の弟子たちが江戸城に登城して上程。

同年9月4日に忠敬の喪が発せられた。

大日本沿海輿地全図は縮尺3万6,000分の1の大図、21万6,000分の1の中図、43万2,000分の1の小図があり、大図は214枚・中図は8枚・小図は3枚で測量範囲をカバーし、特別大図や特別小図、特別地域図などといった特殊な地図も存在する。

日本初の実測による日本地図であるが、測量は主に海岸線と主要な街道に限られていたため内陸部の記述は乏しかった。
測量していない箇所は空白で、蝦夷地については間宮林蔵の測量結果を取り入れた。

地図には沿道の風景や山なども描かれて、絵画的にも美しいものとなった。

測量方法

第二次観測以降、忠敬が用いた測量方法は導線法交会法という方法で、当時の日本では一般的に使われていたが、当時西洋で主流だった三角測量は使用していない。


導線法とは2点の距離と方角を連続して求める方法で、測量を始める点に器具を置き、少し離れた所に「梵天」という竹の棒の先に細長い髪をはたきのように吊るしたものを持った人を立たせる。

測量開始地点から梵天の位置までの距離と角度を測り、測り終えると器具を梵天の位置まで移動して別の場所に梵天持ちを立たせて、同じように距離と角度を測りこれを繰り返すという方法だ。

導線法を長い距離続けると段々と誤差が大きくなるので、その誤差を修正するために交会法が使われる。
交会法とは山の頂上や家の屋根など共通の目標物を決めて、測量地点から目標物までの方角を測る方法だ。

導線法で求めた位置が正しければ、それぞれの測量地点と目標物を結ぶ直線は1点で交わるというもので、忠敬は富士山などの遠くの山の方位を測って確かめる遠山仮目的(えんざんかりめあて)の方法なども活用した。

また天体観測を活用して観測地の緯度や経度を求めることが出来るため、忠敬は晴れていれば必ず天体観測をしたという。

忠敬は地球を球形と考えて緯度1度を28.2里とし、この前提のもとで地図を描いた。
忠敬が求めた緯度1度の距離は、現在の値と比較しても誤差がおよそ1,000分の1であり、当時としては極めて正確であった。

おわりに

55歳という年齢でありながら17年をかけて日本全国を測量した伊能忠敬は、莫大な富を稼いで隠居の身でありながら途中までほぼ自費で東日本を測量して地図を作った。

それまでの日本にはなかった正確な地図を将軍に認められ、幕臣という身分となって西日本も測量し、日本全土のほとんどを測量して地図作りに没頭した。

残念ながら忠敬が生きている間に地図は完成しなかったが、弟子たちは忠敬が死んだことを隠して忠敬の偉業としたのも素晴らしいことだ。

現在の日本地図と比較してもさほどずれていないことなど、大変な苦労と根気に敬服させられる大偉業であった。

 

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草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子

コメント

  1. アバター
    • 名無しさん
    • 2021年 5月 13日 6:13pm

    足で日本地図を作った伊能忠敬は現在と1000分の1しか違わないとは凄いの一言ですね

    4
    1
  2. アバター
    • 名無しさん
    • 2021年 5月 20日 10:21am

    伊能忠敬の作った地図が発見されたようですねは?

    1
    2
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