今回は前編に続いて後編である。
吉原はただの遊郭ではなく、四季折々のイベントが目白押しで文化の発信地であり、江戸で唯一無二の異世界空間だった。
今回はそんな吉原の主人公である遊女たちのエピソードである。
太夫と花魁について
花魁とは、吉原遊郭の遊女で位の高い者のことをいう。
花魁は元々は茶屋から客を呼び出す遊女「呼出し」を指す言葉だったが、宝暦以降は高級遊女全体を表す意味となった。
それ以前の遊女の位は以下となっている。
太夫
格子
局
散茶女郎
次女郎
最高位の遊女は「太夫(たゆう)」と呼ばれ、新吉原ができた頃の万治元年(1658年)では太夫はたったの3人、その下の格子が67人、局が365人、散茶女郎が669人、次女郎1,004人だったことが「吉原細見」に記されている。
寛永20年(1643年)には太夫は18人、延享元年(1744年)には5人、寛延4年(1751年)にはわずか1名で、宝暦の終わり頃には太夫は消滅したという。
宝暦以降は太夫や格子などが消滅し散茶女郎が最高位となり、位の高い遊女たちを指して花魁と呼ぶようになった。
花魁候補の女性は、幼少の頃から禿として徹底的に古典や書道、茶道、和歌、筝、三味線、囲碁などの教養と芸事を仕込まれた。
花魁は知識と教養と芸を兼ね備えた今で言うスーパーモデル的な女性で、男性からも、女性からも慕われる優美な人だった。
着ているもの中で一番高価なものは打掛で、クジャクや虎の刺繍などを施したものもあったという。
花魁の髪型には多くのきらびやかな簪が刺され、当時の人たちは「まるで後光がさしているようだ」と言ったそうである。
横に張り出した髪は「灯篭鬢(とうろうびん)」と呼ばれるクジラのひれを使い、横に広げていた。
伝説の太夫
中でも2代目・高尾太夫は、現在の日本橋箱崎町にある「高尾稲荷神社」に祀られるほど有名な太夫だった。
紅葉の名所である、高尾のもみじの柄が入った衣装を身にまとっていたという。
「高尾」は、吉原でも格式のある三浦屋の花魁が襲名した名である。
2代目・高尾太夫は現在の栃木県那須塩原の出身で、幼い時の名は「あき」であった。
あきの実家は貧しい農家で、しかも父はほとんど働かない人であった。
あきは家計の足しにするために、近くで採って来た「木の葉の化石」を湯治場の客に売っていたという。
その湯治場でたまたま会ったのが、有名な吉原の三浦屋の主人だった。
器量が良く、頑張り屋のあきに惚れ込んだ三浦屋の主人は、養女としてあきを引き取ったのである。
このことが、あきの人生を大きく変えた。
万治元年(1658年)頃、あきは三浦屋の看板遊女・高尾としてデビューした。
高尾は茶の湯や読み書きなど高い教養を身に付け、太夫となった高尾はある信念を貫いたという。
それは心を許せる相手以外には決して身を売らないことであった。どんなに偉い侍が来ようが、この人は嫌だと思えば高尾は振ってしまうのだ。
仙台藩主・伊達綱宗に寵愛され、大金を積まれて見請けされたが高尾にはすでに意中の人がいた。
高尾は操を立てて従わなかったために、伊達綱宗の怒りを買って斬られて川に捨てられてしまったという(※真偽は不明となっている)
高尾の悲惨な末路に人々の同情が集まり、そこに社が建てられ神霊高尾大明神として祀られた。稲荷神社でも実態の神霊を祭神としている珍しい神社である。
また、井原西鶴が書いた「好色一代男」にも高尾太夫は登場し、プレイボーイと呼ばれた主人公を35回も振った女性として書かれている。
高尾は歌舞伎・浮世絵・浄瑠璃・長唄にも度々題材として作品が作られた。
浮世絵好きで知られる有名な画家・ゴッホの自画像のバックにも、浮世絵の女形の高尾太夫が描かれているほどである。
厳しい現実
一般的な吉原の遊女たちは貧しい家庭から吉原に売られたため、見習いの禿や新造となり、先輩の遊女についてしきたりなどを学んでいった。
17歳頃に遊女となると、年季奉公として最大で10年間も身体を売らなければならなかった。
また、年季が明けて自由の身になった後も厳しい現実が彼女たちを待っていた。
当時の女性が就ける職業は大変限られていたので、場所を変えて客を取る女性たちも少なくなかったという。
また、年季が明けないうちに亡くなる女性たちも多数いた。
遊女は心身の負担が非常に大きな仕事であったし、時代を経るごとに環境も厳しくなっていった。
江戸時代の初期は、大名や武士、大商人たちが客の中心であったが、1800年頃からは町人など高いお金を払えない人たちが客の大半を占めたため、多くのお客を相手にしなければいけなくなったのである。
16人の遊女たちの集団放火事件
新吉原の火災は、延宝4年(1676年)~慶応2年(1866年)の191年の間に、22回もあった。
安政江戸地震では吉原で1,020人余りが死亡し、その中で遊女たちは約半数の530余人が亡くなったという。
嘉永2年(1849年)8月5日には、吉原の梅本屋で放火事件が起きた。
火事の混乱の中、町の役人のもとに遊女たちがなぜか16人も駆け込み「自分たちが放火した」と役人に自首して来た。
この事件の背景には、当時の吉原の苦しい経済状況があった。
江戸時代後期になると、幕府に非公認の遊郭が江戸の町に溢れていた。
幕府は非公認の遊郭取り締まりを行い、その遊女たちは次々と吉原になだれ込んで来た。
大きな取り締まりがあった寛政7年(1795年)には、身分の低い遊女たちの数が激増した。
吉原の遊女屋の経営も厳しくなり、借金をして何とか経営を続けている店も少なくなかった。
当然、そのしわ寄せは遊女たちに向けられた。
「紋日」と呼ばれる正月や七夕などに、客から2倍の料金を取る日があったが、紋日に客がつかなければ遊女自身がその金額を支払わなければいけなかった。
特に梅本屋の主人・佐吉は紋日を他の店よりも多く定め、遊女たちを追い詰めていたのである。
不安が積もった中で一人の遊女が梅本屋から脱走した。
それに怒った佐吉は見せしめとしてリーダー格の遊女・豊平を折檻したのである。
それは、これまで必死で働いて来た人生を否定されるような仕打ちだった。
梅本屋の遊女たちは、この過酷な状況を世間に知らせることで憤りを晴らしたいと、16人全員の名前を署名し放火を計画したのである。
翌日の夕刻、主人・佐吉が昼寝をしている時に放火が行われた。
4人の遊女が代表となり連携して2階の天井に火をつけた。2階にしたのは人の目につきやすくすぐに火を消してもらえると考えたからだ。
死者は一人も出ずに終わった放火事件だったが、16人の遊女は囚われの身となった。
そして4か月後に奉行所で裁きが行われた。江戸時代の放火は大罪で、火あぶりの刑に処せられることも多かった。
その裁きを担当したのが南町奉行の遠山金四郎景元、あの名奉行「遠山の金さん」である。
金さんが下した裁きは、直接放火を行った4人の遊女を火あぶりの刑ではなく、それよりも軽い遠島にし、残りの12人には更に軽い禁固刑という温情あるものだった。
金さんは吉原の実情をよく知っていたため、彼女たちを寛大な処分にしたのである。
こうして命を賭けた遊女たちの訴えは、吉原の内実として世に知れ渡ることになる。
また何よりもあっぱれだったのは、被害者である梅本屋の主人・佐吉を島流しに処したことである。
きちんと遊女たちの話を聞いて見事な裁きを行ったのは、さすがは名奉行である。
おわりに
吉原遊郭はある意味では江戸の観光名所で、四季折々のイベントが行われた文化発祥の場所であった。
そして、そのトップに君臨した花魁たちは当時のファッションリーダーで、男性だけでなく女性も数多く訪れた妖艶な場所であった。
しかし華やかな一面の裏で、過酷な環境を改善するために自分たちの命を投げ売った遊女たちもいたのである。
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