今回も前編に引き続き、江戸時代の殿様の暮らしと、変わった殿様たちについて解説する。
殿様の1日
老中など幕府の要職についていない大名たちは、江戸城に登城して将軍に拝謁し、儀式に参列することが公務であり義務であった。
江戸城登城日の殿様の1日は、朝は大抵の殿様は明け六ツ半(午前7時頃)に起床してあさげ(朝食)を摂るが、一汁三菜といった質素な物を食べていた。
しかも毒味役がいたために、冷えたものしか食べられなかったという。
その後には仏間に行って先祖の霊を拝み、朝五ツ(午前8時)上屋敷から江戸城に向かい、供の者を何十人か連れて歩く。その行列は200~300mほどになる。
(※藩によって供をする人数には差がある)
上屋敷から江戸城までは目と鼻の先ほどなのだが、大手門前に到着すると家臣たちの多くを「下馬(げば)」と呼ばれる場所に置いていく。
そこで家臣たちは、待っている間に他の藩の家臣たちと「次の老中は誰か」などと噂話をしていたようで、それが「下馬評」という言葉の語源となったという。
殿様は江戸城の御殿内では1人で行動しなければならず、控室で待っている間は上様(将軍)に対して不始末がないように平伏の稽古をしていたという。
上様に拝謁出来るのは昼四ツ(午前10時)、上屋敷を出てから2時間も過ぎた頃である。
殿様たちが拝謁の2時間も前に屋敷を出たのには理由がある。
登城の日は、江戸にいる200人ほどの大名たちが家臣を連れて行列を組むことから総勢1万人以上にもなり、江戸城の門はスペースが限られていたために大渋滞となるのである。
しかも、自分よりも「家格」が高い家の行列には譲らなければならず、殿様も駕籠から降りて敬意を示さねばならない。
そのために目と鼻の先でも、2時間ほどの余裕が必要なのである。
将軍の拝謁時間に遅刻した場合は、厳しい処分が待っている。
遠近国の横須賀藩主・本多利長(ほんだとしなが)は、4代将軍・家綱が亡くなった時に遅刻をして改易させられそうになったという。
幸い、家康と徳川四天王の1人である本多忠勝との間で「本多家は7代までは潰さない」という約束があったため、何とか減封という処分で済まされている。
上様(将軍)との拝謁を終えると殿様は上屋敷に戻り、昼過ぎからは一応自由に過ごせるのだが、その時間は学問・武芸・能・茶の湯といったものに励む。
昼八ツ半(午後3時)には正室と過ごすために「奥」に行く。外出は午後からで出入りする門も決められており、違う門ではいくら殿様でも通してもらえないくらいルールが厳しかった。
殿様と言えば一見自由な生活を謳歌していたように思われるが、側近がきちんと毎日のスケジュール管理をしていたため、窮屈な生活を強いられたのである。
ゆうげ(夕食)を済ますと書物などを読み、囲碁などを楽しんで夜四ツ(午後10時)に就寝。
これが殿様の1日のスケジュールであった。
次は個性豊かな殿様たちを紹介する。
温水プールを作った 徳川吉通
藩の主である殿様(大名)は、江戸時代を通じて3,500人以上いたが、中には変わった殿様もいた。
尾張藩4代藩主・徳川吉通(とくがわよしみち)は初めて「温水プール」を作った殿様として有名である。
水泳が得意だった吉道は、水上訓練用に「水船」という幅5.4m長さ27mの木製の巨大プールのようなものを作った。
完成後、そのプールに入った吉道は「水が冷たすぎる、なんとかせよ」と命令した。
家臣たちはその中にお湯を入れて、水温調節したという。
それにかかった費用は800両(現在のお金で約8,000万円)だった。しかし結局この巨大プールはすぐに水漏れを起こして、二度と使われなかったという。
この徳川吉通は「変人」として知られていたが、文武両道で政治手腕も長けており名君として期待されていたという。しかし残念ながら満23歳で食あたりで亡くなってしまった。
相撲が好きすぎて部下に実況させた 京極高朗
相撲が大好きだったのが、丸亀藩6代藩主・京極高朗(きょうごくたかあきら)である。
この殿様は、後に当時の最高位・大関となる平岩七太夫を筆頭に、幕内力士6人を召し抱えて熱心に相撲見物に通っていた。
そんなある日、平岩七太夫が相手を投げ飛ばして勝ったところを見て、高朗は手を叩いて大喜びした。ところがそれを目にした人々が「大名にあるまじき行為」として非難したのである。
悪い噂はすぐに幕府の耳に入り、なんと大名の相撲見物が禁止されてしまったのである。
しかしどうしても相撲の様子が気になる高朗は、「御相撲方」という役職を新設した。
両国の相撲場と上屋敷の間を何度も早馬を走らせて「もうすぐ平岩の出番です」「平岩が仕切った」「平岩が投げた」「平岩が勝った」などと、相撲の実況リレーをさせたのである。
役職まで新設してしまうほど相撲好きな高朗だったが、一方では藩士たちにうちわ作りを推奨して「丸亀うちわ」という名産品を生み出し、藩士たちの懐は潤ったという。
寒ブリが好きすぎて自害した 稲葉紀通
福知山藩主・稲葉紀通(いなばのりみち)は、魚の「寒ブリ」が大好物だった。
海の無い福知山藩に移封されたために、隣国の京極高広に「寒ブリ100尾を送って欲しい」と手紙を書いたのである。
その手紙を受け取った京極高広は「寒ブリ100尾とは多すぎる、きっと幕府への賄賂として献上しようとしている」と疑ってしまい、寒ブリの頭を切り落としたものを送った。
稲葉紀通は「武士にとって首を落とすとは不名誉なこと、この上ない侮辱を受けた」と大激怒してしまった。そしてなんと福知山城下の街道を通った隣国の者を問答無用で殺すように命じ、鉄砲を撃ち、首をはねてしまったのだ。
京極高広はこれを幕府に訴えた。
幕府は稲葉紀通追討命令を出して稲葉家はお取り潰しとなり、稲葉紀通は鉄砲で自害したという。
生涯7度の引越を経験した 松平直矩
生涯に7回も移封(転封)を命じられた殿様がいる。
それは越前国大野藩主・松平直基の長男として誕生した松平直矩(まつだいらなおのり)である。
江戸時代3,500人以上もいた殿様の中で1番引越をさせられた殿様で、1度目は3歳の時、父・直基が越前大野藩から出羽国山形藩に国替となったのである。
さらに父は播磨国姫路藩に国替を命じられるが、姫路に赴く途上で死去してしまった。その時、直矩はわずか5歳で家督を相続した。
だが、姫路は幕府にとって西国の抑えとなる要所であったため、幼少の直矩では不十分として越後国村上藩に国替(2度目)となった。
国替は城と藩士などが一緒に引越をする一大事業である。かかる経費も莫大であり、家臣たちの苦労は計り知れない。
成人して27歳になった直矩は転封によって姫路に国替したが(3度目)、親族の越後高田藩のお家騒動に際して調整を行うも、一緒に調停をした出雲国広瀬藩主・松平近栄と共に不手際を指摘されてしまう。
そのため今度は石高を半分以下の7万石に減らされた上に、豊後国日田藩に国替(4度目)となった。
その4年後、3万石加増されて出羽山形藩に国替(5度目)、さらに6年後には5万石加増されて陸奥国白川藩に国替(7度目)となった。
父・直基の代から実に7回も移封させられて財政は見るも無残な状況に陥り、世間からは「引越大名」などと揶揄されてしまったという。
直矩は7度目の転封の3年後、54歳でこの世を去った。
このことがあったせいか、幕末になり幕府の力が弱まると、移封や転封を拒む大名が現れるようになったという。
おわりに
「江戸時代の殿様」は、一国一城の主としてある程度好き勝手なことが出来たイメージがあったが、現実はそうでもなかったようである。
参勤交代など様々な苦労が絶えなかった殿様たちだが、幕府によって厳しく統制されていたからこそ260年も平和な世の中が続いたのかも知れない。
関連記事 : 前編~江戸時代の殿様の暮らしとは 「女遊びで参勤交代に遅れて重臣が切腹」
前後編通じて面白かったです。
そりゃ、あんなに大名がいたら、
260年間もあったら変わった殿様もいたよな!
でも何で大名をあんなに数多くしたのか?
外様は地方で石高多くても、譜代は淘汰できたと思うのだが
しがらみなのかなぁ。