約150年近くも続いた戦国の世を終わらせた徳川家康。
その死後は、幕府を開いた江戸ではなく、晩年暮らした駿府ではなく、生まれた三河でもなく、江戸から遠く離れた日光東照宮に神として祀られた。
今回は征夷大将軍にまで上り詰め、260年以上も続いた平和な世の中の基盤を築いた家康の晩年・最期・遺言について解説する。
徳川家康の人生
天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」に勝利し、62歳で江戸に幕府を開き、初代・将軍となった家康は「人の一生は重荷を持って遠き道を行くが如し」という言葉を残している。
家康の人生はまさに波乱万丈であった。三河の戦国武将の家に生まれるも8歳で今川家の人質となり、「桶狭間の戦い」ではその今川家の一員として戦うも敗れ、一度は命を絶とうとしたが、僧侶の言葉で思い留まる。
今川家の目を逃れ三河城に入ると織田信長と同盟関係を結び、武田信玄と戦った「三方ヶ原の戦い」で大惨敗し、命からがら逃げ帰る。
その7年後には、信長の圧力で正室を殺害し、嫡男を自害に追い込むこととなった。
本能寺の変で信長が自害すると、命からがら伊賀越えを成功させ三河に戻った。
その後、豊臣秀吉が天下人となると、敵として戦った秀吉に忠誠を誓い、三河から関東の地に移封させられてしまう。
数々の困難を乗り越え、筆舌に耐えがたい屈辱に耐えながら乱世を生き抜いた家康は、59歳で天下分け目の「関ヶ原の戦い」に勝利し天下の座を射止めた。
しかし将軍職に就任してたった2年で、将軍職を嫡男・秀忠に譲って自分は駿府で隠居生活を送ることになった。
大御所政治
表向きは息子・秀忠に将軍の座を譲った形にはなったが、これは家康が意図的に行った行動であった。
秀忠に将軍の座を譲ったのは、将軍職は世襲によって代々徳川家が受け継いでいくことを天下に知らしめるためだった。
「関ヶ原の戦い」で家康が勝利できたのは徳川軍だけの力ではなく、福島正則らを始めとする豊臣恩顧の大名たちの力が大きかった。
豊臣家や豊臣恩顧の大名たちは、幼い豊臣秀頼が成人して二代将軍に就任すると考えていた。
しかし家康は秀忠を二代将軍に就任させ、豊臣家には政権を返さないという意志表示をしたのである。
そして実権は駿府にいた家康が握り、大御所政治を行った。
家康が駿府を選んだ理由は幾つかあるが、一番の理由は大坂にいる豊臣家と西国の豊臣恩顧の大名が江戸に攻めて来た時に、駿府で食い止めるためであった。
江戸幕府を盤石な体制にしたいと考えた家康は、亡き秀吉の求心力が未だに残り、莫大な財産を保有している豊臣家の存在が大きな脅威だった。
そんな中、浅野長政、池田輝政、加藤清正、浅野幸長ら豊臣恩顧の有力な大名たちが次々に亡くなり、これを好機とした家康は、慶長19年(1614)「方広寺鐘銘事件」で難癖をつけ、大坂冬の陣と翌年の大坂夏の陣でついに豊臣家を滅亡させた。
家康は「慶長」という年号を「元和」と改めさせた。
「元和」には和を元(はじめる)という意味があり、武力ではなく平和な世の中を作るという意味が込められていたのである。
諸法度作り
家康は多くの側近を江戸から駿府に呼び寄せた。
側近の武士の代表格は切れ者の本多正純、儒学者の林羅山、僧侶の金地院崇伝と南光坊天海、豪商の茶屋四郎次郎、外交の三浦按針ことウィリアム・アダムスらであった。
家康は、徳川家に長期的に力を持たせるため、今までは(戦国の世では)武力で治めていたあやふやだった事柄を法制化することにした。
諸大名を対象にした「武家諸法度」で、幕府と諸藩の大名の主従関係を明確化したのである。
その内容は、日常生活の在り方から始まり、規律を重んじて法令を遵守することなど大名としての自覚を促すものであった。
また、居城を修理する時には必ず幕府に届け出を義務付け、勝手に大名同士の婚姻関係を結ぶことを禁止したのである。
これは大名同士が結託して謀反を企てないための防止策だった。
次に天皇と公家に対しては「禁中並公家諸法度」を発布、天皇は学問に専念して宮中で行う儀式や儀礼を滞りなく行うことを心掛けるべきとした。
同様に、公家たちにも精進して学問の学びを奨励し、衣装や昇進などに関しても細かく取り決めた。命令に背く者は流罪に処するなど厳しいものであった。
奈良・京都・関東などの大寺院には個別に「寺院法度」を下し、彼らの既得権益の多くを剥奪した。
こうして家康は朝廷や寺院の力を弱め、権力を幕府に集中させて徳川政権を安定化しようとしたのである。
法令の整備以外にも様々な政策が取られ、全国の沿岸に大規模な埋め立て工事を展開し、諸大名たちについていた兵士たちをその土木作業に従事させた。
戦乱の時代、兵士たちは戦によって生計を立てていたが、平和な時代になると兵士たちの殆どは失業してしまう。
失業と貧困こそが乱世の元凶だと考えた家康は、兵士たちに仕事を与えて治安の乱れを防ごうとした。
さらに家康は儒教の布教に尽力した。儒教の教えは秩序を重んじ保守的であり、親孝行や主君に対する忠義などで幕藩体制を維持していくことになった。
こうして徳川家が未来永劫政権を担う地盤作りを固めたのである。
そして豊臣家が後継者の問題で失敗したことから、世継ぎ作りにも考えを巡らせ、家康の11人の男子のうち九男・義直を尾張徳川家、十男・頼宣を紀州徳川家、十一男・頼房を水戸徳川家とし大禄を与えて、徳川宗家に男子が出来なかった場合に将軍を出す「御三家」を創設した。
最晩年
元和2年(1616年)1月、一説によると茶屋四郎次郎が鯛の天ぷらで食べたところ美味だったことで家康に土産として献上し、家康は鯛の天ぷらを美味しいと沢山食べた翌日に鷹狩りに出掛け、そこで病に倒れたという。
家康は激しい腹痛に襲われて寝込むようになり、死期を悟った家康は近臣の者たちを呼んで自分が亡くなった後のことを話すようになった。
これを聞いた将軍・秀忠は江戸から駆け付け、近臣の者たちに「大御所様が、ご自分が亡くなられた後のことを話しているが、御心が他のことに向くように」と言ったが、僧侶・天海が「優れた君主は自分の死期を悟り、死後のことを前々から言い残しておくものだ」と言うと、秀忠は涙にくれてそれに従ったという。
遺言
体調を崩して3か月ほどたった4月、家康の病状は悪化し「自分の遺体は駿府の久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を行い、三河の大樹寺に位牌を納め、一周忌が過ぎてから下野の日光山に小堂を建てて勧請せよ」「神として祀られることによって八州の鎮守になる」との遺言を、天海・崇伝・本多正純に伝えた。
家康は伊達政宗や前田利常ら、ゆかりある有力外様大名を駿府に呼び寄せ、愛用の品を遺品として渡した。
家康が亡くなる前日となる4月16日、自分の秘蔵していた刀を駿府奉行に渡して「死罪と決まった者がいるならば、この刀で試し斬りをしてみろ」と言った。
駿府奉行は死罪に決まった罪人をこの刀で討ち、血のついた状態で家康に届けた。
家康はその血のついた刀を二度・三度と振り「この太刀の威力をもって、子々孫々まで鎮護せん」と言って、その矛先を西に向けて飾るように指示した。
多くの外様大名がいる西国に向けて刀の鉾先を向けたのは、武力を持って牽制するという家康の強い気持ちの表れの行動であった。
家康の最期
4月17日の巳の刻(現在の午前10時頃)家康は駿府城にて75歳で死去した。
当日は雨だったが、すぐにその遺体は駿府の久能山に移された。
死因は鯛の天ぷらを食べたことによる食中毒だと長らくされてきたが、現在では天ぷらを食べてから3か月が過ぎていることから、本当の死因は「胃がん」だとされている。
雨にも関わらず、すぐに遺体を久能山に移したのは、久能山は東海道沿いに面した堅固な山城で、東海道を通る西国大名たちへ睨みを利かせるため、「家康が神になった」と信じ込ませるためだった。
つまり家康を神格化して、死後もその威光により徳川政権を揺るぎないものとするためでもあった。
久能山に埋葬したのは家康自身に神秘性を持たせるためで、埋葬の地である久能山から真っ直ぐ西に線を引くと家康が生まれた岡崎があり、家康の菩提寺である位牌を納める大樹寺がある。
大樹寺から東にある久能山へと向かう道は一直線になっている。
これは東に向かって神として再生するという意味が込められているのだ。
秀忠は久能山に社殿を建てるように命じたが、この時に崇伝が家康の神号を「大明神」とするように推し、天海は「大権現」を推した。
結局、秀吉が「豊国大明神」だったことから、天海の推した「大権現」が用いられることになった。
朝廷からは「日本大権現」「威霊大権現」「東光大権現」「東照大権現」という4つの案が出され「東照大権現」と決まった。
一説には、天皇家の神「天照大神」の「照」の字を採用し天皇家の神と同格とすることで、幕府は天皇家と同じ権威を手に入れたかったともされている。
なぜ、家康は一周忌後に日光に祀れと言ったのか?
前述した通り、家康は「一周忌後に日光に祀れ」と遺言を残している。
これには幾つかの説がある。
一つは、日光は家康が敬愛していた源頼朝が深く信仰した霊場だったためという説である。日光は荒れ果てた土地となっており、家康は天海に命じて整備させていたという。
もう一つは、江戸の鬼門の方角である北に日光があり、北を象徴する「北極星」は古代中国では「天帝」と呼ばれていたことから、自身を宇宙の神「天帝」として北の日光に祀らせたという説である。
秀忠の命によって日光に造営された社殿は当初「東照社」と名付けられ、後に「東照宮」となった。
最初の埋葬地である久能山には社殿が造営され、そこは「久能山東照宮」とした。
実は久能山東照宮の本殿は南南西を向いて造営されており、北北東に向かって拝むことになる。
その地から北北東に拝むと、その一直線上には家康が愛した富士山と日光東照宮があるのである。つまり久能山東照宮に参拝すると、おのずと日光東照宮に向かって拝む形になっているのだ。
家康は天海や崇伝と相談し、そこまで考えて自分を神格化させる準備をしていたと考えられる。
おわりに
現在の日光東照宮は、三代将軍・家光の代に造営されたものである。
家康の遺言は「小さなお堂を建てるように」だったが、家光は600万人を動員し、現在の金額でおよそ2,000億円もかけて江戸幕府の権威の象徴として絢爛豪華な社殿を造り上げた。
毎年、徳川将軍家は4月17日に向けて4日間かけて日光東照宮に参詣した。
徳川家康は「神」として人々の意識の中で生き続けることで多大な影響力を及ぼし続けたのである。
江戸幕府が264年も存続したのは、家康のおかげだったと言っても過言ではない。
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