麻田剛立とは
麻田剛立(あさだごうりゅう)とは、江戸時代の中期に活躍した日本の天文学者である。
幼少の頃から天体に興味を持ち、独学で天文学と医学を学び「ケプラーの第3法則」を独自に発見した。
剛立はケプラーの法則を用いて、1年近く前に「日食」の日時を予言し的中させるという偉業を成し遂げ、更に日本で最初の月面観測図を記したことで名声を高めた。
その功績から後世、月面の数あるクレーターの中に日本人名「Asada(アサダ)」と名付けられたクレーターが存在している。
江戸の天文学者と言えば、ベストセラー小説「天地明察」で話題になった渋川春海(しぶかわはるみ)が有名だが、そのおよそ100年後に日本における新しい天文学の道を切り開いたのが麻田剛立だ。
彼の弟子には日本地図を作った伊能忠敬の師である高橋至時と間重富がいる。
今回は、天体に魅せられ日食を的中し、月のクレーターにその名を残した江戸時代の天文学者・麻田剛立の生涯について解説する。
出自と天体への興味
麻田剛立は、豊後国杵築藩(現在の大分県杵築市)の儒学者・綾部安正の四男として享保19年(1734年)に生まれた。
幼名は「庄吉良」、名は「妥彰」、後に「剛立」と号す。
ここでは剛立と記させていただく。
子供の頃から自然や天体に興味があった剛立は、なんと5歳の時に太陽と影の関係性に気づく。
庭に竹の棒を立てた時に、竹の根本から長い影を伸ばしていることに気づき、その影を小石で強くなぞった。
こうして影を1日中なぞり続けた結果、影が太陽に連動して動くことを発見したのだ。
影の観測を1年間続けたことで、季節によって影の長さが違うことにも気がついた。
その時、6歳であった剛立は幼少期から「神童」と呼ばれ、星の名前を正確に記憶していたという。
11歳のある日、剛立の母が神社の前を通りかかった時に7~8人の子供たちが遊んでいたが、一緒に遊んでいたはずの剛立がいなかった。
母が家に帰ると、剛立は空を見上げて紙切れを持っていた。
母から「何をしているの」と聞かれた剛立は「太陽が南中(真南の空に来ること)した時の高さと、太陽が昇ってから沈むまでの間の影の長さの変化を記録して、計算してみようと思った」と答えた。
剛立は夜になると紙切れを持って庭に出て、今度は夜空に浮かんだ月がどの星座の間を移動していくかを観測して記録した。
昼夜を通して観測と計算をする日々(1日に10~16時間)はなんと4か月ほど続き、剛立の体を心配した母はついに観測を禁じてしまう。
だが、剛立は母の忠告を無視して観測を続けたという。
父の安正は「学問で死んだ者はいない、好きにさせなさい」と言って剛立の観測を許した。
剛立が後に偉大な功績を残せたのも、父の教育に対する寛容な姿勢があったからかもしれない。
日食を的中
16歳の時、太陽と月の動きを把握していた剛立は、数日先の太陽と月の動きを予測できるようになっていた。
ある日、剛立は「日食が2日後に起きる」と予測するが、当時幕府が作った暦にはその日に日食の予報は書かれていなかった。
そして2日後、予想通り日食が起きたが、剛立は公には発表せず幕府の暦の間違いは自分の胸にしまっておいた。
青年期(20歳頃)には本格的な天体観測を行い、独学で天文学に没頭しながら「傷寒論」などの医学書も読んで勉強し、藩医もしていたという。
そして前述した通り、剛立は「ケプラーの第三法則」を独自に発見していた。
ケプラーの法則とは、ドイツの天文学者・ケプラーが提唱した惑星の動きに関する三つの法則である。
第一法則:惑星は太陽をその1つの焦点に持つ楕円軌道の上を運動する。
第二法則:惑星と太陽を結ぶ線分が同じ時間に描く面積は等しい。
第三法則:惑星の太陽からの距離の3乗と惑星の公転周期の2乗の比は一定で、すべての惑星で同じである。
その後、ニュートンが「万有引力の法則」を発見するが、その手がかりとなったのがこの「ケプラーの第三法則」である。
当時の日本では、第一と第二の法則は漢籍によって伝来していたが、第三の法則はまだ認知されていなかった。
だが、剛立は独自に「ケプラーの第三法則」を発見していたという説がある。(※実際に剛立の弟子たちがまとめた「麻田翁五星距地之奇法」に第三法則の計算法が記されているが、剛立が提唱したものなのか、蘭学所などで見聞きしたものをまとめたのか、その正確な記録は残念ながら残ってはいない。)
剛立は未知の領域に考えを巡らせ、大きな一歩を踏み出す姿勢を常に持っていた。
16歳の時に日食を的中させた剛立は、それから12年後に独自の「ケプラーの第三法則」を用いて28歳の12月に、翌年の9月1日に日食が起こることを予測する。
1年近くも先の日食の日付まで予測した剛立だったが、今回も幕府が作った暦には日食の予報はなかった。
この頃の暦は、宝暦5年(1755年)に幕府に採用されたばかりの最新の「宝暦甲戌元暦」だったが、町の人々は「この男は何を言っているのか?」という目で見ていたという。
誰も剛立の予測を信じない中、剛立を信じたのは同郷の有名な儒学者である三浦梅園(みうらばいえん)だけであった。
三浦梅園は、豊後国出身の医師であり儒学者でもあった。
20歳頃から天地の成り立ちや自然現象に惹かれて「条理学」を唱えていた自然哲学者でもあり、複数の藩主から招聘の声がかかった優秀な人物だ。
剛立と梅園は、天文学を通じて交流があった。
そして、宝暦13年(1763年)9月1日、杵築の町民たちが空を見上げる中、見事に剛立の予測は的中し、日食が起きたのである。
まさか剛立の予測が当たるとは思っていなかった町民たちは大歓喜し、この偉業で剛立は天文学者として名を上げ、町の子供たちから「先生」と慕われるようになった。
ただ、九州の地方の藩での出来事だったので特にそれ以上のことはなく、その後しばらくの間、剛立は藩医として生計を立てていた。
月面観測
明和8年(1771年)または安永元年(1772年)頃、剛立は向学心が抑えきれなくなったのか、脱藩して大坂へ向かった。
追っ手の目をくらますため「麻田剛立」と改名し、大坂で医師を生業としながら天文学の研究を続けたのである。
この頃になると漢訳天文書(中国で翻訳された西洋の天文学書)が民間でも入手可能になり、「崇禎暦書物」を基盤に「暦算全書」や「暦象考成上下編」など、むさぼるように天文学書を読破しその内容を吸収していった。
しかも、ただ知識を吸収するだけではなく、それを検証するために様々な観測を始めるのだ。
剛立は望遠鏡や反射鏡などの観測装置を改良し、望遠鏡のガラスを自分で磨いて独自の観測装置を製作するなど、天体観測の精度を上げるために試行錯誤を重ねる。
そして理論を実測で確認し、独自の「消長法(しょうちょうほう)」という計算法をまとめた。
しかし、当時の望遠鏡は口径の小さい屈折望遠鏡であったため、観測の精度には限界があり、天体の細部まで観察することはできなかった。
安永7年(1778年)剛立は、オランダ人からより精度の高い、当時としては極めて珍しい口径の大きな鏡仕立ての反射式望遠鏡を購入する。
そして、この高性能な反射式望遠鏡を使って、より詳細に月面の風景を観測したのである。
その様子を事細かく図でスケッチし、日本人として初めてクレーターを含む月面観測図を描くという、二度目の偉業を成し遂げている。
月の地表は、それまで遠目で見ていた月の外観とはまったく異なり、細かい起伏にとんだ驚くべきものだった。
初めて月面を見た剛立は、月を「重い疱瘡の病にかかった人のようだ」と表現し、クレーターを「まるで池のようだ」と言って感嘆したという。
この年に、8年後に起こる日食の情報を豊後にいる三浦梅園に手紙で送り、月面観測図も併記したという。
この手紙は所在不明とされていたが、2009年に鹿毛敏夫氏が「月のえくぼを見た男 麻田剛立」を書くにあたり、剛立の様々な資料を収集した際に、現所蔵者と手紙(月面観測図)の現物を発見している。
後進を育成 ~伊能忠敬は孫弟子
晩年の剛立は、大坂で町医者として働きながら天体観測を続け、やがて「先事館」という天文学を教える私塾を開いた。
剛立が作ったオリジナル暦「時中暦(時中法)」は高い精度を誇り、当時の人たちにとても評判が良かった。
この日本初の天文学の私塾「先事館」からは多数の優秀な弟子が輩出されている。
弟子の中で有名なのは、江戸幕府の改暦(寛政の改暦)で功績を上げた高橋至時(たかはしよしとき)と間重富(はざましげとみ)などである。
高橋至時と間重富の弟子には、その後、日本地図を歩いて作った伊能忠敬(いのうただたか)がいる。
つまり伊能忠敬は、剛立の孫弟子ということになる。
寛政7年(1795年)、当時の幕府の老中首座・松平定信は、新しい暦の作成をするため、剛立に改暦の仕事を依頼した。
しかし、その時剛立は59歳と老齢であったこともあり、愛弟子の高橋至時と間重富を幕府に派遣している。
伊能忠敬は至時から天文学を学び、重富から正確な測量技術を学び、それらを用いて後に日本地図を作った。
つまり、剛立の正確な天文学がなければ、伊能忠敬の正確な日本地図もなかったのかもしれない。
他の弟子には「夢の代」を書いた山片幡桃(やまがたばんとう)がいる。
また、江戸後期の上方を代表する儒学者で徳川家の伝記「逸史」を書いた中井竹山と、その弟・中山履軒とも交流があり、二人は剛立から天文学を学んだ。
前述した豊後の三浦梅園とは、長きに渡って交流が深かったようである。
当時の学問は非常に閉鎖的だったが、剛立は天文学者として非常にオープンで、日本各地の研究者と交流し、知識を占有することなく進んで提供した。
また、月食の観測を一般の人たちが参加できるように公開イベントにしたこともあったという。
独学で探求し、自分の目で観測し、その成果を惜しみなく提供した剛立の姿勢は、日本の科学者として先駆的なものだった。
寛政11年(1799年)5月22日、幼い時から天体に魅せられた豊後の少年は、65歳でその生涯を閉じた。
おわりに
麻田剛立が亡くなってから約180年後の1976年、国際天文学連合が剛立の功績を称え「タルンティウス-C」と呼ばれていた直径12kmの月のクレーターを「Asada(アサダ)・クレーター」と名付けた。
その場所は「危機の海」と「豊かな海」と呼ばれる場所の中間に位置している。
剛立と同じように日本人の名前が付けられたクレーターは10個あるが、剛立は江戸時代に初めて月のクレーターを確認・観測した人物で、日本の天文学の立役者とも言える人物だったのだ。
この記事へのコメントはありません。