酒井忠勝とは
幕藩体制というものが確立し、江戸幕府の支配体制が固まったのは3代将軍・家光と4代将軍・家綱の時代だった。
この2人の将軍には、有能で忠義心の厚い家臣が集っていた。
その中でも特に有名な人物が4人いる。
それは、酒井忠勝(さかいただかつ)、松平信綱(まつだいらのぶつな)、阿部忠秋(あべただあき)、保科正之(ほしなまさゆき)である。
今回は、私を捨てて公に尽くし、将軍家光・家綱を支えた剛直な忠義者・酒井忠勝について解説する。
出自
酒井忠勝は、天正15年(1587年)家康の家臣・酒井忠利の子として三河国西尾(現在の愛知県西尾市)で生まれた。
天正19年(1591年)幼い時に下総国に3,000石を与えられ、初陣は慶長5年(1600年)徳川秀忠に従い中山道を従軍した時の、第二次上田合戦である。
元和6年(1620年)4月に2代将軍・秀忠の命で世継ぎの家光付きとなり、元和8年(1622年)12月に武蔵国深谷7,000石を加増されて1万石を領した。
寛永元年(1624年)3代将軍・家光から2万石を加増されて、11月には土井利勝と共に本丸年寄(老中)となった。
父・忠利が亡くなって遺領を継いで川越藩2代藩主となり、寛永9年(1632年)には、さらに2万石を加増され、寛永11年(1634年)若狭1国及び越前・近江・安房に加増され若狭小浜に移り、合計12万3,500石を領する国持大名となった。
寛永15年(1638年)土井利勝と共に老中を罷免、大事がある日のみ登城を命じられ幕閣の意見をまとめる役職につく。
これが後の大老職の始まりだとされている。
草履を温める
家光は若い頃、夜になると江戸城を抜け出し、寵愛する小姓の家を訪問していた。
ある冬の夜、家光がいつものように小姓の家から帰ろうとすると、草履が温かくなっていたので不思議に思った。
これは忠勝が密かに家光を警護し、小姓の家に居る時は外で待機し、その間に家光の草履を懐で温めていたのである。
このことを知った家光は、自分の軽はずみな行動が周囲を心配させていることに気付き、その後夜遊びをやめたという。
忠勝の覚悟
家光には、忠長という弟がいた。
家光は病気がちでおとなしいタイプだったが、弟の忠長は活発な上に利発だった。2代将軍・秀忠と正室・お江は忠長を可愛がり、次期将軍は忠長ではないかと言われていた。
ある時、家光は大病を患った。
侍女が忠長のために豪華な食事を持っていこうとすると、これを見た忠勝は「兄君が病気で苦しんでいるのに、弟君が食事など摂れるはずがない」と言って膳を下げさせた。
将軍・秀忠が忠勝を問いただすと「忠長様へのご無礼、お手討ちは覚悟の上です」と答えた。
すると秀忠は「家光は良き家臣を持った。これからも家光を頼む」と忠勝を褒めたという。
加増を断る
家光は忠勝に、駿府18万石の加増を打診していた。
しかし忠勝は「家康様が保有していた土地を拝領するのはもったいない」と辞退したのである。
その後、甲府24万石への加増も打診されたが、これも忠勝は辞退した。
家光がその理由を問いただすと
「大禄を食めば驕りが生じ、本多正純のように失脚への道を歩むかもしれない。加増を受けたとしても自分の代は驕りが生じなかったとしても、自分の後の藩主たち(子孫)が驕らないとも限らない。ゆえに謹んで辞退いたします」
と返答したという。
しかし忠勝にはもう一つの理由があり、大老職にある自分が12万石の所領しか得なかったとなれば、周囲の幕臣たちも出世することに没頭せずに、後世への模範となるであろうと考えていたという。
幕閣の中枢にいる者に驕りが生じれば治世が乱れるということを、忠勝は良く分かっていたのである。
忠勝は幕政に参与していることが多かったが、人身売買の禁止・税制度の制定・五人組の制定・治安維持・水利施設の設備・植林や開墾などを奨励した郷中法度を制定し、藩政の基礎も作り上げていた。
家光は、そんな忠勝の剛直な人柄を信用し「今まで多くの将軍がいたが、わしほど果報者はいない。右には讃岐(忠勝)が、左には伊豆(信綱)がいるから安心だ」と語っていたという。
竹矢来の屋敷
江戸城で火災があり、家光が一時的に忠勝の屋敷に避難したことがあった。
この時、忠勝は広い屋敷を竹矢来(たけやらい)で囲ませて、家来たちに槍を持たせて警備を固めた。
家光はこれに大変喜び、忠勝を大いに褒めたという。
これ以降、忠勝は屋敷に堀を設けず、この竹矢来を残した。
これが現在の東京都新宿区矢来町の地名の由来となった。そして酒井家の屋敷と牛込御門を結ぶ道が整備され、現在の神楽坂の原型になったという。
知恵伊豆をたしなめる
家光の没後、忠勝は4代・家綱にも仕えた。
ある時、庭で剣術の稽古をしていた家綱が「庭にある大きな石が邪魔だから外に出すように」と、忠勝に命じた。
すると忠勝は「そのためには塀を壊さなければなりません。費用もかかりますし警護にも支障が出ますのでご勘弁下さい」と返答した。
すると、これを聞いた松平信綱が「庭に穴を掘って埋めてしまえばいかが」と進言した。
これに対して忠勝は「世の中のこと、万事思い通りになると思われると、今後色々と問題があろう。石は放っておいても何か害をなす訳ではない」と信綱をたしなめた。
信綱はその意見に納得し、これ以上は何も言わなかったという。
おわりに
酒井忠勝は将軍・家光が亡くなった翌日に、諸大名を江戸城に集めて「公方様(家光)が他界したけれども、大納言(家綱)様が家督を継ぐ、いずれも安堵あるべし。もし天下を望む者がいれば、この場に出てこい」と言い放ったという。
その後に保科正之と松平光通が「万一幼君であることをこれ幸いに怪しい動きをする者があれば、即座に踏み潰し御代始めの御祝儀にしてくれよう」と釘を刺した。
酒井忠勝の忠義心は諸大名たちを震え上がらせ、その場に平伏させたという。
参考文献:「徳川十五代」「武野燭談」他
徳川四天王・酒井忠次の子や孫ではないのですね。酒井家は素晴らしい人材を輩出した家系なんですね?
酒井家の祖が知りたくなりました。
忠勝さんは秀忠から褒められても侍女は忠長に御馳走を持っていかなかったので手討ちにされなかったのですか?
人生をかけた大勝負、秀忠には認められたが、その侍女が気になるのは私だけ?