伊達政宗の野望
伊達政宗(1567年 – 1636年)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した大名である。
政宗の若い頃からの目標は、伊達家の勢力を拡大し、天下統一を成し遂げることであった。しかし、その前に立ちはだかったのが豊臣秀吉であった。
政宗は1584年に父・輝宗の隠居にともない伊達家の家督を継ぐと、勢力を拡大していく。しかし、1590年の小田原征伐で秀吉に従い、政宗の天下取りの夢は一旦頓挫することとなる。
秀吉の死後に起こった関ヶ原の戦い(1600年)では東軍に属し、家康を支援した。この戦いの結果、家康が天下を掌握し、政宗はその功績により100万石を約束されたが、実際には62万石に留まった。
家康の政権下においては、政宗は辛抱強く待つ姿勢を見せた。
しかし家康の長寿により、政宗は天下取りの野望を胸に秘めながらも、徳川政権下での生き方を模索するようになった。
将軍宣下と家光の挑発
徳川家光(1604年 – 1651年)は、江戸幕府の第3代将軍であり、家康の孫にあたる。
家光が将軍宣下を受けた際に発した「余は生まれながらの将軍である」という言葉は非常に有名である。この場には遠方から多くの大名が訪れており、政宗もその中にいた。
家光は続けて「大名は今後余に臣下の礼を取るべきだ。異論がある者はすぐさま領国に返り、戦の準備を始めよ」と挑発的な発言をした。
これに対して政宗は「政宗をはじめ、誰も異論は持ちますまい」と述べ、いち早く平伏したという。
この行動により、政宗の家光への忠誠心が強調され、家光との信頼関係がさらに深まった。
将軍を諫める勇気
家光は鷹狩りを好む将軍としても知られていた。
ある日、政宗は江戸へ向かう途中、鷹狩りを楽しんでいる家光を見つけた。家光は田畑の中で鷹を手にして立っており、周囲には護衛の者がいなかった。この無防備な状態を見て、政宗は家光を諫めることを決意した。
後日、江戸城で家光に拝謁した際、政宗は「将軍家は天下の重い任にあります。遊猟を好んで身軽にお出かけになり、警護の者もおつけになりません。私めは思いもかけぬ変事でもあってはと将軍家のために心配しております」と述べた。
この諫言に家光は感銘を受け、政宗との信頼関係は一層深まったという。
家光からの特別待遇
政宗は62万石の外様大名であったが、家光の政宗に対する優遇ぶりは異例であった。将軍家に招かれて茶を賜り、酒宴に呼ばれることも多かった。
ある日、家光から酒宴に招かれた際、政宗はいつも帯刀していた大脇差を外そうとした。しかし、家光は「そちは老年のことであるから、気を遣わずに今後は脇差を帯びたまま進むとよい」と述べ、政宗に帯刀を許したのである。
これに感激した政宗は涙を流し、将軍の前で酩酊して寝てしまうこともあった。その際、政宗の大脇差が実は木刀であったことが発覚する。
政宗が寝たふりをして家光にわざと確認させたのか、それともいたずら心からのものだったのかは不明だが、家光との信頼関係の深さを示すエピソードである。
政宗の最期
政宗は晩年、家光との信頼関係を大切にしながら生きた。
寛永13年(1636年)5月1日、病状が悪化した政宗は家光に拝謁し、これが最後の拝謁となることを伝えた。
政宗の衰弱ぶりに驚いた家光は、江戸中の社寺に病気平癒の祈祷をさせ、主治医を派遣して治療を試みた。
5月21日、家光自らが伊達屋敷を訪れ、政宗を見舞った。
しかし、3日後の5月24日、政宗は永眠した。享年70であった。
家光は、この戦国時代の英雄の死を深く悲しんだ。
政宗の遺産
政宗は多くの文化事業に関わり、教育や医療、農業の発展に寄与した。
政宗の治世下で発展した仙台藩は、江戸時代を通じて安定した統治を続け、繁栄を享受した。
政宗が築いた仙台城(青葉城)は、1601年に建てられたもので、仙台市のシンボルとなっている。
政宗はこの城を拠点に、仙台藩の発展を図り、領民の生活を安定させた。
また、政宗は茶の湯や能楽、書道などの文化活動にも熱心であり、その影響は今日まで続いている。
最後に
伊達政宗と徳川家光の関係は、単なる将軍と大名という枠を超えたものであった。
政宗の経験と知恵は家光にとって貴重なものであり、二人の間には深い信頼関係があったのだ。
戦国時代の激動を生き抜き、江戸時代の平和と繁栄を築くために尽力した二人の姿は、今日でも多くの人々に感動を与え続けている。
参考文献:「伊達政宗」「独眼竜の野望 伊達政宗の生きざま」ほか
政宗が家督相続したのは1584年ですよ。輝宗が隠居して家督を譲りました。
ご指摘まことにありがとうございます!
修正させていただきました😊