源義経とは
源義経は兄の源頼朝の平氏打倒の挙兵に馳せ参じ、京都で木曽義仲を討ち取り、平氏との一ノ谷・屋島・壇ノ浦の合戦で平氏を滅ぼした、源氏の最大の功労者だ。
源平合戦の中で源義経は当時では考えられない奇襲や兵法を用いたとされ、壇ノ浦の戦いでは船の上で八艘飛びをしたと伝えられる。
また、武蔵坊弁慶との五条大橋での出会いでは、剛力な弁慶を感服させ家来にしたという伝説がある。
源義経の剣豪としての実力や数々の伝説について追っていく。
源義経の生い立ち
源義経は平治元年(1159年)清和源氏の流れを組む河内源氏の棟梁である源義朝の9男として生まれ、幼名を牛若丸と名付けられた。
父・義朝は平治の乱で敗れ殺されて、生まれたばかりの義経は平清盛によって助命され、7歳の時に京都の鞍馬寺に預けられる。
義経は鞍馬寺の東光坊阿闍梨覚日のもとに預けられ、僧になるように定められて遮那王と呼ばれる。
幼い義経は僧になるべく勉学に励んでいたが、11歳の時に自分の家系図と記録を見つけて「父・義朝の本望を果たす」と武士になることを決意する。
15歳の時には父の家人であった者の息子から「あなたは清和源氏の末裔で義朝公の御子ですよ!源氏が国々に押し込められていることを情けないと思いませんか?」と言われた。
それ以来義経は学問を一切しなくなり、同輩の子供らと木刀や刀を振り回すようになる。
剣術修業の噂
伝記物の中で義経は「天狗に兵法を習う」「鬼一法眼に剣術を習う」などと書かれているが、これは話を脚色して伝わっている。
天狗説について
鞍馬寺は山岳修験の寺院で、京都では清水寺と並ぶ庶民の信仰の聖地である。
その中で「鞍馬寺には天狗が出る」という噂が立ち、後に義経が身軽に動き回ることから天狗に兵法を教わったと広まったのだ。
また、鞍馬寺の参詣に訪れた人たちに、宿坊の主人たちが「私たちの身内が義経に剣法を伝授した」と鞍馬寺信仰を広めるために勝手な作り話をしたのだ。
だから、鞍馬寺には義経に関する「牛若背比べ石」や「義経堂」などゆかりの地がある。
鬼一法眼説について
鬼一法眼は剣術の始祖と呼ばれる剣術の達人で、陰陽師でもあり妖術も使う剣術家である。
鬼一法眼は鞍馬寺の八人の僧兵に武術を伝授した。これが鞍馬八流または京八流と呼ばれ、この八流が後の剣術の流派となっていくのだ。
しかし、鬼一法眼は義経に直接伝授した訳ではなく、八人の僧兵の中の一人が義経に教えた流派が、後に鞍馬流となったとされている。
義経は鬼一法眼の持つ中国から伝わった伝説の兵法書「六韜三略(ろくとうさんりゃく)」を読みたいと思って「本を写させて欲しい」と屋敷に頼みに行った。
しかし、断られたために鬼一法眼の娘と恋仲になり、本を写して中味を完全に把握して娘を捨てて逃げてしまう。
怒った鬼一法眼は義経に追手を差し向けるの、が返り討ちにされてしまう。
言わば義経と鬼一法眼は仇同志なので、鬼一法眼説は作り話である(※とはいえ鬼一法眼自体が伝説上の人物ではあるが)
六韜三略は伝説の兵法書で、「坂上田村麻呂は六韜三略を読んで奥州の悪路王を倒した」「平将門は六韜三略を読んで分身の術を体得した」など読んだ人物は神通力や魔法が使えるといった伝説がある。
17歳でこの本を読んだ義経が、実際に後に平氏を滅ぼしたのだから説得力の高い伝説と言える。
また、義経は六韜三略の話を聞く前に、奥州の藤原氏のもとに居てそこで馬術を習ったとされる。
義経の剣術とは
鞍馬寺の僧兵から義経が習った剣術は「敏捷性を生かし短い刀を用いて素早く敵の懐に入る剣術」とされている。
短い刀の実際の長さは53cmで、反りが大きな車太刀という刀だったという。
六韜三略の書物を読んだ翌年、義経18歳の時に武蔵坊弁慶と運命的な出会いをする。
京の五条大橋で、弁慶は千本の太刀を集めようとして999本になった所に義経が現れた。
弁慶は「太刀をよこせ」と言って襲いかかったが、義経は橋の欄干に飛び移り弁慶をかわしてその場を立ち去る。
翌日は清水寺で縁日があった、そこに義経が現れると思った弁慶は清水寺で待ち構えると義経がやって来た。
再度挑んだ弁慶だが、飛び回る義経を捕まえられずに逆に馬乗りにされて義経に「家来になるか?」と問われて弁慶は降参するのだ。
この話は創作とされ、弁慶の実在自体も立証されているわけではないが、各地に弁慶の逸話が残っているのも事実である。
※弁慶の実在については「武蔵坊弁慶は実在したのかどうか調べてみた」の記事が詳しい
義経の兵法とは
義経の兵法は思いがけない奇襲だったとされている。
一ノ谷の戦い
一ノ谷の合戦では3000の兵を連れて一の谷の北にある鵯越(ひよどりごえ)に向かった。
この時、義経は弁慶に地形に詳しい狩人を呼ばせて絶壁の道を尋ねた。
狩人が「途中に岩場があり人も馬も通れない」と言うと、義経は「鹿は通るか」と聞く。
狩人が「通る」と答えると、義経は「鹿も四つ足なら馬も四つ足、通れぬことはない後に続け」と駆け下りた。
義経の精兵たち30騎あまりが義経に続いて駆け下り、後から残る大軍も続いて下りたので、平氏はまさか絶壁から攻めて来るとは思わずに総崩れになって敗れた。
※義経の逆落としについては「源義経が逆落としをしたのは本当なのか」の記事が詳しい
屋島の戦い
屋島の合戦では、義経は平家の四国の拠点である屋島攻撃に向かったが激しい北風が吹いており、地元の船頭たちは反対した。
しかし、義経は反対を押し切って、たった船5艘150騎で暴風雨の中強行し、風を逆に利用して通常3日かかる航路(1日と4時間とも)をたった4時間で着いてしまう。
平氏方では海から義経の船団が来ると予想していいたが、義経は裏をかいて内陸から迫った。
80騎の兵で対岸の民家に火をかけ、出たり入ったりを繰り返し、相手に大軍だと見せかけた。
平氏方は船に急いで乗ったが、その後 手薄になった陸地に義経軍は攻撃し大勝した。
壇ノ浦の戦い
壇ノ浦の合戦では、午前中は潮の流れに乗って平氏方が義経軍を圧倒していたが、義経軍は何とか耐えた。
平氏は潮の流れが変わる午後3時までには勝敗をつけなければならなかったが、義経は潮が変わったと同時に当時タブーとされていた、船の船頭やこぎ手を矢で射殺しろと命じる。
義経は「戦いは殺すか殺されるかだ」と手段を選ばずに船頭を殺した。※平家物語では射殺を命じておらず、大勢が決した後に源氏の兵が乗り込み船頭やこぎ手を殺したとある
平氏方は身動きが取れずに、義経は自ら船の上を飛びながら移動して敵を倒し、一気に形勢は逆転してついに平氏は滅亡した。
六韜三略に「奇襲攻撃をせよ」という兵法が載っていたかどうかは定かではないが、義経は敵が考えもしない奇襲とタブーの戦術を用いたのだ。
伝説となった源義経
源義経は剣術の始祖・鬼一法眼が教えた鞍馬寺の8人の僧兵の1人から剣術を学んだとされる。
剣豪としては剛力無双の武蔵坊弁慶を倒し家来にした腕前と、自らが先陣をきって敵に向かっていく勇猛さを合わせ持つ。
六韜三略を読み神通力を得たかのような数々の奇襲攻撃で父の仇を討った義経は、後に兄・頼朝の怒りを買って殺されてしまう。
多くは創作や言い伝えであり立証されてないものも多いが、数多くの伝説が生まれるほどその実績は凄まじく、極めて有能な武将であったことは間違いないだろう。
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