平安時代

中宮定子 ~清少納言が憧れた才色兼備の才女

日本人の才女と聞くと、平安時代を代表する才女、紫式部清少納言を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。

文才に優れた彼女たちの残した作品は、全世界で読まれています。

しかし、そんな彼女たち以外にも、隠れた才女はいたのです。それが中宮定子(ちゅうぐうていし / 藤原定子)です。

中宮定子の生涯

中宮定子

藤原定子 枕草子絵巻

977年、定子藤原道隆高階貴子の間に生まれます。

990年、一条天皇のもとへ女御として入内します。同年、中宮となります(※中宮とは日本の天皇の妻たちの呼称の一つ

既に一条天皇には律令で定められている三后がおり、定子の入る余地はなかったのですが、父・道隆が本来、皇后の別名であるはずの中宮を皇后から分離させることで定子を立后させました。兄・伊周が内大臣を務めるなど、道隆一族は栄華を極めます。

995年、関白であった道隆が急死すると、叔父・道長と兄・伊周の間で権力争いがおきますが、伊周・隆家の兄弟が花山法皇一行を襲撃する花山院奉射事件を起こしました。(女性関連の誤解により花山法皇を矢で射った

法王は怪我で済みましたが、この事件はライバルの道長に追求され、伊周・隆家の兄弟は左遷。定子は出家します。

997年、定子は一条天皇との間に第1皇女となる子を出産。一条天皇により、定子は再び宮中へ戻ります。

999年、第1皇子を出産。翌年に女御であった彰子が中宮職となり、定子は皇后となります。

そして同年、定子は第2皇女を出産した直後に亡くなります。(享年25)

母譲りの才覚

中宮定子

高階貴子 近世の百人一首かるた

母・高階貴子(たかしなの きし)は和歌に優れ、女房三十六歌仙に数えられるほどでした。また、百人一首にも作品が選ばれています。

中関白かよひそめ侍けるころ        儀同三司母(高階貴子)
忘しの行末まてはかたけれは けふをかきりの命ともかな

現代訳
あなたは「いつまでもおまえを忘れまい」と言うけれど、先々まではそれも難しいので、いっそ、この上なく幸せな今日を限りの命であったらよい

定子も母の才覚を受け継ぎ、亡くなる直前に詠んだ和歌「夜もすがら契りし事を忘れずは こひむ涙の色ぞゆかしき」が後拾遺和歌集に選ばれるなど、優れた文才を見せています。

中宮定子が宮中にいた頃、彼女の教育係をつとめていたのが清少納言でした。

中宮定子

清少納言

父・道隆は娘が天皇の寵愛を受けるよう教養をつけようとしました。しかし、母の知性を存分に受け継いでいた中宮定子は時として、清少納言すら感服させる知性を見せています。『枕草子』の中には、そんなエピソードが頻繁に出てきます。

・清少納言が中宮定子に「香炉峰の雪はどうかしら?」と聞かれ、簾をかかげて感心されたというエピソードは有名ですが、前提として唐の詩人・白居易の詩を定子が知っていなければ謎かけそのものができない。当時、漢詩は男性が勉強するものであるにもかかわらず、中宮定子は詩を知っていました。

・一条天皇が持ってきた「無名」という名前の琴を珍しがり、清少納言を含む女御たちがいじっていました。この琴の名前を教えてくださいという清少納言に対し、中宮定子は「その琴には名前がない」と切り返します。名前がない=無名ということをかけた、ジョークのようなものでした。

知識があるだけではなく、とっさのユーモアのセンスもある女性だったようです。

性格

中宮定子は、聡明なだけではなく優しさも兼ね備えた女性だったと言われています。

・清少納言が宮中に出仕したばかりの頃、恥ずかしがって夜しか人前に出ようとしませんでした。それを知った中宮定子は、夜の間だけでも清少納言に声をかけて絵を見せ、緊張をほぐそうとしていました。

・清少納言は一時期、藤原道長と通じているという疑いをかけられていました。藤原道長は定子の兄・伊周と対立していますので、定子を裏切っていることになります。その疑いにショックを受けた清少納言は実家に引き籠ってしまいます。その清少納言に、中宮定子は紙を送ります。以前、清少納言が白い綺麗な紙やよい筆を見ると嬉しくなると語っていたことを覚えていたのです。

天皇からの寵愛

中宮定子

一条天皇像

定子は、一条天皇に非常に愛されていました。

前述のとおり、中宮定子は一度出家していますが、還俗して宮中に戻っています。出家した女性が宮中に再び戻るということは極めて異例のことでした。批判も多く、貴族の一人であった藤原実資は自身の日記の中で、「天下不甘心」と非難しています。

そのため中宮でありながら宮中の片隅に住むことになってしまったのですが、一条天皇はそんな定子を見捨てず、足繁く通っていたそうです。

また、容姿も非常に美しく、『枕草子』の序盤、清少納言が夜にしか出仕しなかった頃、灯りに照らされた中宮定子の袖口からのぞく手の美しさに感動している場面があります。

終わりに

『枕草子』に書かれている内容は、清少納言の宮中での生活7年間全てではなく、道隆一族が最も輝いていた1年半ほどだけです。

それは、『枕草子』が書かれた理由が、中宮定子への慰め・鎮魂であるからと推察されています。父・道隆の死後、定子や伊周たちの権勢は衰えていきます。

才色兼備というにふさわしい中宮定子ですが、父の後ろ盾を失ってからの人生は、決して恵まれたものではありませんでした。その彼女を励まし、その死後には鎮魂の意味を込めて、華々しかった宮中の全盛期の思い出だけを書いたのではないでしょうか。

平安時代を代表する文学作品『枕草子』を作り上げたのは、清少納言の、中宮定子へのひたむきな尊敬の念だったのです。そして、中宮定子はその尊敬を受けるほど、教養と優しさに溢れた人物だったと言えるでしょう。

 

アバター

草の実堂編集部

投稿者の記事一覧

草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Audible で聴く
Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 清少納言は「かき氷」にシロップをかけて食べていた 【平安時代の驚…
  2. 【光る君へ】 紫式部は『源氏物語』を書いた罪で地獄に堕ちていた?…
  3. 平安時代のゴシップガール・和泉式部と『和泉式部日記』
  4. 畠山重忠について調べてみた【最後まで潔い生き様を示した坂東武士】…
  5. 後白河法皇は本当に「日本一の大天狗」だったのか? 「平安末期・権…
  6. さぬきうどんについて調べてみた
  7. BL小説も驚く、少年修行僧と僧侶の関係 「稚児に寄せる情愛」
  8. 意外に残念に感じた、京都の観光名所 5選

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

宦官について調べてみた【中国史の陰の主役】

中国陰の主役である宦官中国の歴史を語る上で欠かせない存在、それが 宦官 (かんがん)である。…

清朝の姫たちは爪がものすごく長かった 「西太后の爪は20センチ」

清朝中国の長い歴史の中で、数多くの王朝が興っては消えていった。その封建統治の最後の王…

ミイラとなった奥州藤原氏 「藤原清衡ら4人の身長や血液型が判明」

平安時代、朝廷との円満な関係と信頼関係を築き、およそ100年もの間、平泉を中心に自治支配を行い独自の…

長屋王の変と藤原四兄弟【長屋王邸宅跡に今も残る呪い?】

歴史をのぞくと、その時代の背景にはどのような出来事があったのか、気になることが次々と出てきます。…

日本の餃子について調べてみた「実は完全食?!」

まず日本人で餃子が嫌いという人は少ないだろう。カリッとした焼目、噛むと肉汁と野菜の旨味が口中…

アーカイブ

PAGE TOP