今回は前編に引き続き後編である。
熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した武将である。
一度は平氏の平知盛(たいらのとももり)の家来になるも、石橋山の戦いでは洞窟に隠れていた源頼朝を梶原景時と共に見逃し、窮地を救った。
その後、源氏の勢力が鎌倉に集結した時に、直実も頼朝に忠誠を誓い、再び源氏の家来となったのである。
一の谷の戦い
頼朝に臣従した直実は御家人となり、常陸国の佐竹氏征伐で大功を挙げ、熊谷郷の地頭職に任命されて支配権を安堵された。
その後、義仲軍追討・平氏追討軍として直実も息子・直家と共に参戦、寿永3年(1184年)木曽義仲を破った宇治川の戦いでは範頼軍に参入し、息子・直家と共に手柄を挙げた。
その勢いで京の都に攻め込み、平家のほとんどの武家屋敷を壊したという。
同年2月、一の谷の戦いに参陣した。
この戦いでは直実と直家は源義経の奇襲部隊に所属し「鵯越の逆落とし」で、直実・直家・郎党の3人組が平氏の陣に一番乗りで突入したが、平氏の武者に囲まれてあやうく討死しかけている。
この戦いの中で直実は、波際を逃げようとしていた平氏の公達(きんだち)らしき騎乗の若武者を見つけた。
直実は「返したまえ!返したまえ!敵に後ろを見せるのは卑怯。戻って尋常に勝負すれ!」と手に軍扇を打ちふり、若武者との一対一の戦いになった。
直実はたちまち若武者を組み伏せたが、近くで良く見ると相手はまだ幼く、逃がそうと思ったが、味方の軍勢が大勢近づいて来た。
この頃の慣わしとして、敵方の武将は「なぶり殺し」にされたのだ。
直実はそれを避けるために「汝、助かるすべもなし」と震える刀で若武者を討ち取った。
その時、直実の目には涙が光っていたという。
その後、首実検をするとこの公達は平清盛の甥・平敦盛(たいらのあつもり)であり、若干17歳で直実の息子・直家と同じ年齢であった。
敦盛は、笛の名手であった祖父・平忠盛が鳥羽上皇から賜った青葉の笛を大切に持っていたという。
直実は、息子と同年代であり笛の名手で心優しい敦盛を討ったことに戦の無常さを強く感じ、敦盛の首をさらさず、首と遺品を敦盛の父・平経盛に詫び状も添えて送った。
これを「熊谷の送り状」といい、末っ子の敦盛を案じていた経盛は直実の厚い心に感激し「ありがたきかな、このような武人の手に討たれしは」と、御礼の返事を寿永3年(1184年)2月24日にしたためた。これを「経盛の返し状」という。(※平家物語作者の創作で、書状の交換はなかったとする説もある)
平家物語ではこれ以後、直実は深く思うところがあり、出家への思いを強めたと書かれている。
平家物語におけるこの一騎打ちの様子は、直実・敦盛を共に主人公として能の演目「敦盛」、幸若舞の演曲「敦盛」、歌舞伎といった多くの作品に取り上げられている。
頼朝との確執
この後、源氏軍は屋島の戦いで勝利し、壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡させた。
頼朝は直実を「日本一の剛の者」と評していたという。
直実は頼朝に近い武将として仕えていたが、文治3年(1187年)8月4日の鶴岡八幡宮の流鏑馬で「的立役」を命じられた。
的立役とは流鏑馬の的を持たされる役目で、直実はこの低い役目に自尊心を傷つけられてしまった。
弓の名手であった直実はこれを不服として拒否すると、頼朝から所領の一部を没収されてしまい、二人の関係はこれ以降冷え切ってしまった。
無敵の剛勇無双と言われた直実は、建久元年(1190年)敦盛の七回忌にあたり、菩提を供養するために高野山に入り、熊谷寺という寺を建立して敦盛の霊を厚く弔ったという。
出家
この頃、直実は過去の経緯から伯父・久下直光と不仲が続き、境界争いが続いていた。
ついに頼朝の面前で両者の口頭弁論が行われることになったが、武勇は優れていても口下手だった直実は頼朝の質問にうまく答えることができなかった。
突然直実は「自分の敗訴は決まっている」と突然怒り出し、証拠書類を投げ捨てて座を立つと刀を抜いて髷を切り、頼朝があっけにとられたという逸話が残っている。
直実は、手柄を立てることや金銭にとらわれる生き方に虚しさを感じ、家族や頼朝の制止を振り切って武士を捨てて仏門に入る決心をする。
建久4年(1193年)直実は京都の法然上人の草庵を訪ねて「今まで大勢の人を討ってきた。今は大変後悔している。こんな私でも仏は救ってくれるのか?」と厳しい表情で法然に真剣に問いただした。
法然上人は「罪の多少にかかわらず、念仏を申せば誰でも往生できることに疑いありません」と返答した。
直実は初めて仏の慈悲を知り、感動して法然上人の弟子となりそのまま出家したのである。(※出家の時期は建久2年または3年という説もある)
法然上人から「泥沼の中でも濁り無く蓮のように清らかな花を咲かせる心を持って生きよ」という意味の「法力房蓮生(ほうりきぼうれんせい)」という法名を与えられて、略して「蓮生(れんせい)」と呼ばれ、法然生誕の地に誕生寺を建立した。
建久6年(1195年)京から鎌倉に戻り、東海道藤枝宿に熊谷山蓮生寺を建立。
その後も法然寺、光明寺を建立するなど、多くの寺と道や橋を作った。
元久2年(1205年)66歳になった直実(蓮生)は死期を悟り、法然上人や弟子たちに別れを告げて熊谷に戻る。
承元元年(1207年)自分で創設した熊谷寺(ゆうこくじ)で死期を予告し、9月4日に67歳で大往生を遂げた。
おわりに
熊谷次郎直実は武将として「日本一の剛の者」と称えられ、仏門にあっては坂東の阿弥陀仏と崇められる名僧となったという。
剛の者であったが、息子と同じ年齢の平敦盛を討ったことに苦しみ、出家してしまうほど心優しい人物でもあった。
平安末期から鎌倉初期にかけての動乱の世を生きた波乱万丈の生涯だったが、晩年は生まれ故郷で安らかな一生を終えた。
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