「事件は会議室で起きてるんじゃない!現場で起きてるんだ!」
いつかどこかで聞いた名ゼリフ。現場のことは現場が一番よく分かっている……ということは世の中多いものです。
しかし偉い人は知らないがゆえに現場を理解せず、地位や権力をもって自分の価値観(理想や原則)を押し通そうとします。
そんな上長の理不尽を呑み込むのが社会人……とは思いながら、ついブチ切れてしまった方もいるのではないでしょうか。
今回は源家三代(頼朝・頼家・実朝)に仕えた歴戦の勇士・長沼宗政(ながぬま むねまさ。五郎)のエピソードを紹介。
鎌倉幕府の第3代将軍・源実朝(みなもとの さねとも)に仕えていたころのお話しです。
「畠山重慶を生け捕るべし」悦び勇んだ宗政は……
建暦三年九月大十九日丙辰。未尅。日光山別當法眼弁覺進使者申云。故畠山次郎重忠末子大夫阿闍梨重慶籠居當山之麓招聚窂人。又祈祷有碎肝膽事。是企謀叛之條。無異儀歟之由申之。仲兼朝臣以弁覺使者申詞。披露御前。其間。長沼五郎宗政候當座之間。可生虜重慶之趣。被仰含之。仍宗政不能歸宅。具家子一人。雜色男八人。自御所。直令進發下野國。聞及郎從等竸争。依之鎌倉中聊騒動云々。
※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)9月19日条
時は建暦3年(1213年)9月19日。日光山輪王寺(栃木県日光市)の大夫阿闍梨重慶(たいふあじゃり ちょうけい。畠山重慶)が浪人らを集めて鎌倉調伏の祈祷を行い、謀叛を企んでいるとの情報が入りました。
重慶は元久2年(1205年)に冤罪で粛清された畠山重忠(はたけやま しげただ)の末子。当時はまだ幼かったため、出家を条件に助命されていたようです。
「事の真偽を確かめる。五郎よ、阿闍梨を召し捕らえて参れ」
「よぅし、待ってました!」
実朝の命を受けた宗政は、久しぶりの活躍チャンスに喜び勇んで家にも帰らず、御所を退出するなりまっすぐ日光山へと向かったとか。
「五郎殿、戦さの支度はいかがなされる!」
「せめて兵を集めましょうぞ!」
「要らねぇ、今おる者だけついて参れ!」
その場にいたのは、家子(いえのこ。親族の家来)1名と雑色8名のみ。家で帰りを待っていた一族郎党が大挙してその後を追ったため、鎌倉じゅうが一時騒然となったそうです。
冗談じゃねぇ!言うも言ったり悪口雑言
「御所(将軍)、ただいま戻りやした!」
出発から一週間が過ぎた9月26日の夜になって、宗政が鎌倉へ凱旋しました。
「ご苦ろ……えぇっ!?」
実朝が驚いたのも無理はありません。何と宗政が持っていたのは首桶。中にはもちろん?重慶の首級が収まっています。
何と言うことを……実朝は宗政を痛罵したとか。
「畠山次郎は罪なくして討たれたのだから、その息子が謀叛を企むのは無理からぬことではないか。だから取り調べの上で説諭すべく生け捕れと命じたのに、軽はずみに殺して罪業を重ねるとは!」
その言葉を聞いた宗政は、ついカッとなって言い返します。
「ケッ……ま~たキレイゴトを。どうせそう言うと思ったぜ!確かに生け捕るのは簡単だったさ。だが連行して来りゃあ、左右の取り巻き女どもが『かわいそ~、ねぇ許してあげて~』とかお願いして、許しちまうんだろ?それが気に入らねぇからブッ殺してやったのさ。
(中略・頼朝時代の自慢話)
まったくやってらンねぇよ。こちとら現場で命のやりとりしてンだぜ?で血塗れンなって帰って来りゃア、御所じゃやれ和歌だの蹴鞠だの、それで鎌倉が守れンのかよオイ!
御恩と奉公って言うけどよ。敵から奪った土地は実際戦った俺たちにはくれねぇで、ほとんどお気に入りの女どもにくれちまう……教えてくれよ、ヤツらが戦さ場で何したってンだ?この前だってあの土地はあの女、この土地はこの女にやっちまいやがってよぉ……!」
とまぁこんな調子で、言うも言ったり悪口雑言の数々。あまりにも【自主規制】な【掲載禁止】で聞くに堪えない【検閲済】だったため『吾妻鏡』にも記されなかったほどでした。
逆ギレにも程がある……とは言うものの、よほど日ごろから鬱屈した思いを溜めこんでいたのでしょうね。
終わりに
建暦三年九月大廿六日癸亥。天晴。晩景宗政自下野國參着。斬重慶之首。持參之由申之。將軍家以仲兼朝臣被仰曰。重忠本自無過而蒙誅。其末子法師縱雖挿隱謀。有何事哉。随而任被仰下之旨。先令生虜其身具參之。就犯否左右。可有沙汰之處。加戮誅。楚忽之議。爲罪業因之由。太御歎息云々。仍宗政蒙御氣色。而宗政怒眼。盟仲兼朝臣云。於件法師者。叛逆之企無其疑。又生虜條雖在掌内。直令具參之者。就諸女性比丘尼等申状。定有宥沙汰歟之由。兼以推量之間。如斯加誅罸者也。於向後者。誰輩可抽忠節乎。是將軍家御不可也。凡右大將家御時。可厚恩賞之趣。頻以雖有嚴命。宗政不諾申。只望。給御引目。於海道十五ケ國中。可糺行民間無礼之由。令啓之間。被重武備之故。忝給一御引目。于今爲蓬屋重寳。當代者。以哥鞠爲業。武藝似廢。以女性爲宗。勇士如無之。又没収之地者。不被充勳功之族。多以賜靑女等。所謂。榛谷四郎重朝遺跡給五條局。以中山四郎重政跡賜下総局云々。此外過言不可勝計。仲兼不及一言起座。宗政又退出。
※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)9月26日条
(実際には宗政と実朝の直接対話ではなく、近江前司仲兼を介してのやりとりとなります)
で、宗政は当然のごとく謹慎処分を申しつけられてしまいます。
よく殺されなかったものだと思いますが、宗政も暴言を吐くだけあって、そうなったらなったで一戦構えるだけの覚悟はしていたのでしょう。
翌閏9月16日に兄の小山左衛門尉朝政(おやま さゑもんのじょうともまさ)のとりなしで、再び出仕するようになったとか。
「まぁ、五郎の言い方ってモンもありますが、ちったぁ我ら御家人のことも顧みちゃあもらえませんかね?」
「……うむ」
実朝は「謀叛を起こす気持ちも解る」と言いましたが、それでいざ謀叛が起きた時、命がけでそれを鎮圧するのは他ならぬ御家人たちです。
女たちにいい顔したいからと言って、その尻拭いをさせられる身にもなって欲しい……武士には武士の価値観があり、その棟梁たる鎌倉殿には、それをご理解いただかなくては困ります。
頼朝亡き後、和歌に蹴鞠に京都志向・文弱方面へと流れつつあった鎌倉殿。しかし彼を支えるのは、御家人たちの武に他なりません。
平和と典雅を愛するのはすばらしいことですが、それが何によって支えられてきた(そして支えられている)のか、現代日本にも通じるものを感じます。
※参考文献:
- 関幸彦ら編『吾妻鏡必携』吉川弘文館、2008年9月
- 細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』朝日新書、2021年11月
将軍の命令を無視しといて勝手に首はねてきたのを怒られてるのに、ツッコみ所満載の罵倒するとか。頼朝だったらその場で斬首でもおかしくない規律違反行為であるにも関わらず、なぜか実朝の方が貶められる不思議な話である。