昔から一日千秋(いちじつせんしゅう。一日が千の秋=千年にも感じられる)などと言うように、人を待つ時間はとても長く感じられるものです。
行く方も早く行ければいいのですが、諸事情によってそうもいかないこともしばしば。皆さんも、そんな経験があるのではないでしょうか。
今回は鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』より、第3代将軍・源実朝(みなもとの さねとも)と、その寵愛する御家人・東平太重胤(とう へいたしげたね)のエピソードを紹介したいと思います。
早く帰って来て……重胤を待ちわびる実朝
東平太重胤自下総國參上。是無双近仕也。而給白地之暇。下向之處。在國及數月。仍遣御詠歌。雖被召之。猶以遲參之間。蒙御氣色籠居云々。
※『吾妻鏡』建永元年(1206年)11月18日条
時は建永元年(1206年)夏ごろのこと。重胤はどういう訳か長期休暇を願い出て、地元の下総国(現:千葉県北部)へ帰ってしまいました。
「まぁ、たまにはいいけれど……」
重胤がいないと寂しくてしょうがないものの、たまには物分かりのよい度量も見せてやりたいお年頃。
気長に戻りを待つことにしましたが、待てど暮らせど数か月、重胤は一向に戻って来てくれません(特に期限を定めず休暇を与えていたのでしょうか。随分と大らかですね)。
「平太、早く帰って来ないかな……」
そろそろ夏から秋になり、空を見上げれば雁が連なり飛んでいます。
こむとしも たのめぬうはの 空にたに 秋かせふけば 雁はきにけり
※『金槐和歌集』より
【意訳】そなたが来ないと何をしても上の空、秋風が吹いて雁が飛んできたように、早く帰って来て欲しい。
「こむとし」は「今年(こんとし)」と「(そなたが)来ん年」にかけ「もう今年じゅうには帰って来んつもりなのか」と嘆いています。ちょっと大袈裟な気もしますが、それだけ重胤がいなくて寂しかったのでしょう。
実朝はそんな和歌を詠んで送ったのですが、まだ重胤は帰って来ません。だんだん秋風も冷たく、季節は冬に近づこうとしています。
いま来むと たのめし人は 見えなくに 秋かせ寒み 雁はきにけり
※『金槐和歌集』より
【意訳】いま来るか、もう来るかと心待ちにしていてもそなたは来ない。あぁ秋風が寒い。雁たちは連れ添って飛んでいるが、私には連れ添うそなたがいない。
あぁ重胤。そなたがいないと寒いよ、寂しいよ……まるで恋人を待つように実朝が焦がれていた11月18日、ようやく重胤が帰って来たのでした。
「すみません、遅くなりました!」
ほぼ半年にわたる超がつくほど長期休暇の末に鎌倉へ戻った重胤でしたが、実朝はこれを厳しく叱りつけます。
「ふざけるな!わしがあんなにあんなに会いたい会いたい寂しい寂しいって歌を詠んでよこしたのに、返歌の一首もよこさんで……もうそなたなど知らん!二度と顔も見とうない!下総でもどこへでも、好きなところへとっとと失せろ!消えてなくなれ!」
寂しさが一周回って怒りに変わってしまったのでしょう。あまりの剣幕に弁解の言葉もない重胤は、仕方なく謹慎するのでした。
悶々とする重胤に、義時からのアドバイス
晴。重胤參相州。蒙御氣色事。愁歎難休之由申。相州被仰云。是非始終事哉。凡逢如此殃者。官仕之習之。但献詠哥者。定快然歟云々。仍於當座染筆。被令詠一首。相州感之。相伴參御所給。重胤者徘徊門外。于時將軍家折節出御南面。相州被披置彼哥於御前。重胤愁緒之餘及述懷。事之躰不便之由。被申之。將軍家御詠歌及兩三反。即召御前。片土冬氣。枯野眺望。鷹狩。雪後朝等事。被尋仰。數剋之後。相州退出給。重胤奉送于庭上。合手。依賢慮預免許。忽散沈淪之恨。子葉孫枝。永可候門下之由申之云々。
※『吾妻鏡』建永元年(1206年)12月23日条
「あぁ……もう御所(実朝様)はそれがしをお許し下さらないのだろうか……」
それからと言うもの、重胤は悶々と謹慎生活をひと月あまり。このままでは埒が明かないと思い切って、執権・北条義時(ほうじょう よしとき)の元へ相談に訪れました。
「なるほど。事情はよう分かり申した」
相談を受けた義時は、重胤にやさしく諭します。
「まぁ悲観することはございませぬ。奉公人であれば主君の怒りを買ってしまうことはよくあるもの。じきにお怒りも解けましょう。あと、せっかく御所から御歌をいただいたのであれば、御歌をお返しするのがおすすめです」
アドバイスを受けて重胤はさっそく和歌を詠みました。残念ながらその和歌は残っていないようですが、ともあれ真心のこもった一首でした。
「おお、これは素晴らしい。早速それがしがお届け申そう」
義時が御所へ向かい、同行した重胤は門前で待つことに。
「どうかな、お気に召して下さるだろうか……」
果たして義時が重胤の和歌を献上すると、実朝は大喜びでこれを詠みます。
「これだよ、これ……やっぱり平太の歌は最高じゃな!」
いたく気に入ったのか、実朝は三度も和歌を詠み上げると、すぐに重胤を招き入れるよう命じました。
「待っておったぞ平太。下総はいかがであった?土産話しなどたんとあろう。さぁさぁ早く聞かせてたもれ……」
すっかり機嫌を直した実朝、安堵する重胤。その様子を見届けると、義時は静かに中座します。
「執権殿、ありがとう存じます。此度の御恩は子々孫々に至るまで決して忘れず、末永く門下にお仕え申します」
義時を見送りながら、重胤はそう感謝したということです。めでたしめでたし。
※ちなみに、重胤がどんな歌を詠んだのかは記録に残っておらず、ちょっと残念ですね。
終わりに
以上、重胤を待ちわびた実朝と、許しを乞うた重胤のエピソードを紹介しました。実朝のが和歌をこよなく愛したこと、そして義時が御家人たちの信望を集めていたことがよく分かりますね。
この後、重胤は滝口武者(たきぐちのむしゃ。内裏の警護役)として上洛し、京都の様子をこまめに報告しています(連絡を怠って怒りを買った教訓が効いたのでしょう)。
そして承久元年(1219年)に実朝が暗殺されるとその菩提を弔うために出家したと見られ、『吾妻鏡』から姿を消すのでした。
果たしてNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ではこのエピソード、演(や)ってくれるでしょうか。今から楽しみにしています。
※参考文献:
- 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 7 頼家と実朝』吉川弘文館、2009年11月
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