上総介広常とは?
現在放映中の「鎌倉殿の13人」は、一見ギャグタッチな演出が多くポップに見せてはいるが、暗殺に次ぐ暗殺で陰湿かつ衝撃的な場面も多く、大きな話題を呼んでいる。
最も衝撃的だったのは物語の序盤において、佐藤浩市氏が演じた 上総介広常(かずさのすけ ひろつね)が暗殺されたシーンであろう。
源頼朝の命により暗殺された上総介広常とは、どんな人物だったのだろうか?
生涯を振り返ると、そもそも広常は頼朝の父・義朝と主従関係にあった。
1156年(保元元年)の「保元の乱」及び、1160年(平治元年)「平治の乱」も、一貫して源義朝側で戦った。義朝側が敗戦した後は時勢に従って平家に下った。
父・常澄の死後には異母兄達と相続争いが起こり、頼朝挙兵までこの問題は尾を引くこととなる。
1179年(治承3年)には、上総国守(千葉県中央部/行政長官)として赴任した平家家来・伊藤忠清と揉めて、平清盛を怒らせ勘当されている。
1180年(治承4年)頼朝は石橋山の戦いの敗戦後、安房国(千葉県南部)で立て直しを図った。
そこへ広常が2万騎を揃えて参加したことが、鎌倉幕府史書『吾妻鏡』に記されている。
その後、「富士川の戦い」や「金砂城の戦い」にも参戦するが、1182年(寿永元年)頼朝との意見相違が目立ち、周囲も気にする状況になった。
1183年(寿永2年)頼朝から反逆計画を疑われ、すご六の最中に梶原景時の手によって殺害された。
なぜ、頼朝から暗殺されたのか?
広常を暗殺した理由として『吾妻鏡』では、次のように取り上げている。
・頼朝軍に遅れて参加した
・頼朝の前で馬を降りる「下馬の礼」無し
・頼朝の水干を望み、貰い受けた岡田義実に嫌味を言い喧嘩になった
いづれも頼朝を主君と思わぬ振る舞いや、高飛車な言動である。
しかし『吾妻鏡』が取り上げる広常の行いや物言いだけでは、少々信憑性に欠ける部分もある。
鎌倉初期史論書『愚管抄』(巻六)では、「朝廷のご機嫌を気遣う頼朝に反発して、東国独立を語る広常を謀反と見なして殺害に及んだ」と記されている。
東国独立という点では頼朝と広常の理想は一致するが、問題は誰が主導で成すかという1点に尽きる。
広常は「上総介」を名乗っていた。
上総介とは国司次官職を意味し、房総半島平氏一族長をも兼ねる存在である。
彼が治める上総国は(千葉県中央部)は砂鉄と馬の産地であり、騎兵2万を揃えられる豊かな農地がある。
敵に回せないとすれば、上手く手懐けて従わせるか亡き者にするしかない。
頼朝は、広常を手懐けることは難しいと判断し、強硬手段を選択したのである。
頼朝の東国覇権に邪魔な人物像とは?
当時、頼朝が危険視していたのは、誰であろうか?
彼は、同じ源氏一門どころか血を分けた兄弟すら容赦はしなかった。
頼朝が排除した人物像から、どんな者達を恐れたのかが浮かびあがってくる。
それは、自分に取って変わり権力を握る・または権益を侵す可能性のある人間である。
1. 武田忠頼(甲斐源氏)
2. 源義経
3. 上総介広常
1. 武田忠頼は源氏一門である。
時の朝廷が頼朝の勢力を警戒し、対抗馬として選んだのが彼だった。
朝廷は、頼朝の支配下・武蔵国(東京都や埼玉県、神奈川県川崎市や横浜市の大部分)の行政長官補佐に忠頼を任命した。
それを耳にした頼朝は当然激怒したはずである。
しかし、朝廷に意義を唱えられない。
矛先は任命を受けた武田忠頼に向かった。
2. 源義経は身内である。
義経追討は、頼朝に断りなく朝廷から官職を受けた事が原因だった。
頼朝は、朝廷と交渉する東国武士代表である。
戦においては武神であったが、交渉相手の朝廷に容易く利用される危うさもあり、その戦の強さとカリスマ性が最大の脅威となる可能性も大いにあった。
3. 上総介広常は、序盤の頼朝にとって最大の味方・後見の立ち位置で現れた御家人である。
1180年(治承4年)に石橋山の戦いで敗けた頼朝の下に、大軍2万を率いて馳せ参じる。
初戦で300騎しか集められなかった頼朝に対し、何十倍もの軍勢を引き連れた広常のカリスマ性・軍事力・財力は脅威そのものであっただろう。
最大限に評価していたからこそ、早々に葬ったのではないだろうか。
東国を巡る覇権の歴史と、広常暗殺の関わりとは?
東国覇権争いは、東国独立と無縁ではない。
むしろ、2つは切り離せないモノである。
最初に、東国独立を掲げて覇権レースに名を挙げたのは、平将門だった。
領地争いで叔父達と争い、勢力を広げて東国豪族の世話役になり、さらに朝廷からの独立を望み、東国のリーダーとなったのである。
しかし東国独立は、将門の死を持って一端潰えてしまった.
その後、将門の乱は東北地方に飛び火する。
即ち「前九年の役」である。
前九年の役とは、平安中期に陸奥国(福島県、宮城県、岩手県、青森県)の豪族・安倍氏が起こした反乱である。(※安倍氏はルーツが不明な豪族)
陸奥国の軍政府長官であった源頼義は、息子・義家と共に安倍氏と戦い苦戦しつつも勝利した。
彼らは頼朝の祖先にあたる。
1070年(延久2年)義家は下野守(栃木県/行政長官)に、1083年(永保3年)は陸奥守に任じられた。
その後に起きた「後3年の役」では、再び豪族の争いに介入したが「私的な戦い」と朝廷により評価され、1088年(翌寛治2年)陸奥守を免職された。
頼朝の祖先は、豪族の独立を阻む立場で名を挙げたが、朝廷から裏切られる結果となった。
頼朝が東北を含めた東国に拘る理由は、祖先と深い関わりがあり実効支配地だったからに他ならない。
実は兵士系統な御家人たち
鎌倉幕府を支えた有力御家人で、平氏系統は以下の通りである。
1.千葉常胤
2.梶原景時
3.三浦義澄
4.和田義盛
5.畠山重忠
彼らはそれぞれ領地名を通り名としているが、本姓は平である。
特に千葉氏と畠山氏は広常と同じ、平忠頼の子孫である。
将門が親戚の内輪もめで争ったように、同じ一族でも決して一枚岩ではない。
しかし、頼朝はリーダーに成れる存在として広常を警戒した。
終わりに
上総介広常の願いと頼朝の理想は、同じ場所を目指した。
広常は、己の血筋に流れる東国の英雄・将門を念頭に置き、願いを口にして憚らない。
頼朝は、朝廷からのくびきを絶つためには、慎重に時間をかけてやるべきだと考えた。
それは将門のように謀反人として朝廷の敵になるやり方ではなく、合法的に成す方法であった。
それを実現するためには、志を隠して朝廷とやんわり渡り合い、時には馴れ合う政治力が必要で、広常に最も欠けていた部分だった。
まさに東国独立の実現は、将門血脈ではなく、彼の死後に台頭する源氏により完成したのである。
参考文献
「その後の東国武士団 源平合戦以後」関 幸彦 著作
「日本史の授業3 悪人英雄論」 井沢元彦 著作
「鎌倉幕府と北条義時 見るだけノート」 小和田哲男 監修
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