合戦で、敵をビュンビュン射殺し、バッタバッタと切り倒すイメージがある鎌倉武士。
彼らは神も仏も恐れず戦いを繰り返して敵を葬ったが、実は「怨霊に怯える一面」も持ち合わせていた。
鎌倉武士が怨霊を恐れた訳は 大昔から続く御霊信仰にあった!
縄文時代から「人は死ぬと体から魂が離れ、生きている人々に悪行を成す」と信じられていた。
やがて「政治の表舞台から追われたり謀反や戦乱で敗れた者が、勝者に災いを起こす」と恐れられ、平安時代に「御霊信仰(ごりょうしんこう)」が確立された。
「御霊信仰」の最も古い儀式の記録は、863年(貞観5年)である。
宮中には、恨みを持って死んだ荒ぶる魂を鎮める「御霊会(おんりょうえ)」という儀式がある。
初めの「御霊会」では、中納言・藤原種継暗殺事件に関与したと疑われて憤死した光仁天皇の皇子・早良親王(さわらしんのう)と他5人が神として祀られた。
早良親王は、崇道天皇の贈り名を持って鎮魂された。
他の5人は以下である。
伊予親王(いよしんのう)と、母の藤原吉子
伊予親王は桓武天皇の皇子で、平城天皇へ謀反を企んだとして母・藤原吉子と共に拘留され、食物を絶たれ自害した。
823年(弘仁14年)無罪と認められ、母共々称号や位が回復された。橘逸勢(たちばな の はやなり)
橘逸勢は、真言宗開祖・空海(弘法大師)や嵯峨天皇と並ぶ三筆と讃えられる平安時代書家。
謀反の疑いで杖で打つ拷問に耐えたが、伊豆国(静岡県伊豆半島)へ流罪となり護送中に病死。文室宮田麻呂(ふんや の みやたまろ)
文室宮田麻呂は、従者・陽侯麻呂(やこ の まろ)の謀反告発で牢獄に捕らえら伊豆国へ流罪。
藤原広嗣(ふじわら の ひろつぐ)
藤原広嗣は、聖武天皇の申し開き命令を無視し、大宰府(九州地方行政機関)から一万余りの兵を率いて反乱を起こしたが、捕らえられて処刑。
佐賀県唐津市には広嗣・怨霊を鎮めるための「鏡神社」がある。
「御霊信仰」の背景には、疫病や自然災害発生による社会不安があった。
特に疫病流行は、無念の想いで非業の死を遂げた亡霊達が引き起こしたと信じられ、彼らに位や称号を贈り、神に祀る事で災いを起こさないようにお願いしたのである。
源頼朝が怯えた怨霊の祟りとは?
源頼朝は「鎌倉殿の13人」でも描かれているとおり、敵対する者や親族や兄弟さえ容赦なく滅ぼした冷酷な人物だが、怨霊を恐れる一面を持っていた。
しかし当時の感覚からすれば、それほどおかしな事ではなかった。
治承・寿永の乱(いわゆる源平合戦)は、保元の乱の敗者・崇徳上皇(すとくてんのう)の怨霊が起こしたと当時、取沙汰されていたのである。
頼朝だけではなく、保元の乱の勝者・後白河天皇(後に上皇→法皇)も、怨霊鎮めを行っていたことが鎌倉幕府の歴史書「吾妻鏡」に記述されている。
さらに鎌倉の鶴岡八幡宮は「怨霊鎮め」の役割も担っていた。
その対象は、治承・寿永の乱で入水した安徳天皇や平家一門である。
他に頼朝は、弟・源義経及び、義経を匿ったという理由で滅ぼした奥州藤原氏の怨霊を宥めるため、1189年(文治5年)永福寺も建立した。
建立には、奥州藤原氏と刃を交えた畠山重忠ら関東御家人の助力があったと「吾妻鏡」は伝えている。
天下人といえども、怨霊を恐れる気持ちは常人と変わらなかったのである。
北条氏が怯えた後鳥羽上皇の祟りとは?
頼朝の突然の死は、安徳天皇や義経など、滅ぼされた人間たちの怨霊によるものだと当時、風説が飛んだ。
1221年、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の執権・北条義時を討伐しようと兵を挙げ「承久の乱」が起こる。後鳥羽上皇は敗れて壱岐へ流されたが、上皇の死後、怨霊の祟りが囁かれた。
後鳥羽上皇が亡くなった翌年の1240年(仁治元年)、北条義時の弟の時房が急死したのである。
時房は病気がちでもなく突然亡くなったので、人々の間では「おかしい」と噂になった。
前年の1239年には、三浦義村も急死し、1242年には、義時の子・泰時も60歳で死去している。
では北条義時の最期はどうだったのか?
義時は、1224年(元仁元年)に62歳で死去しており、脚気と暑気あたりが原因と「吾妻鏡」には記されているが、やはり急死だった。
所領や財産を子孫へ譲り渡す証書を書く暇もなかったらしい。
その翌年には北条政子と、文官代表の大江広元が死去している。
そして後鳥羽上皇が「承久の乱」で流された同じ季節の夏に、義時・政子・広元・泰時が亡くなっているのである。
鎌倉幕府の重要人物が相次いで近いタイミングで亡くなった事で、人々はより一層、怨霊の祟りを連想したのである。
このような風聞に、北条氏はどう対処したのだろうか?
後鳥羽上皇の贈り名は最初は「壱岐院」であったが、直ちに「顕徳院」に改名された。
1247年(宝治元年)には、鶴岡八幡宮の今宮を創建し、後鳥羽上皇・土御門天皇・順徳天皇を祀っている。
弓矢や刀の通じない相手では、昔ながらの慰霊を繰り返すしか方法は無かったのだ。
終わりに
「承久の乱」以後、政治主体は鎌倉幕府へ移り、朝廷の権威は失墜する。
京都は強盗や群盗が現れ、比叡山や高野山など高名な山寺の僧兵が悪行を働く。
そして1230年代には、夏に雪や霜が降る異常気象が起こり、全国的に不作となり大飢饉になった。
科学や医学が発展していなかった当時において、突然死や政治の乱れ、異常気象などを「怨霊」と結びつけて考えたのは自然なことだったのかも知れない。
恨みを一心に受けた北条一族は、不幸が起きる度に怨霊を恐れて慰霊するという代償を払い続けたのである。
参考文献
日本の歴史09「頼朝の天下草創」
>>後鳥羽上皇が亡くなった翌年の1240年(仁治元年)、北条義時と弟の時房が急死したのである。
えっ
ご指摘ありがとうございます。「の」が「と」になってましたね。
修正いたしました。