NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」、いよいよ最終回も間近、周囲では早くもロスになる方が続出しているようです(筆者だけじゃなくて安心しました)。
第1回「大いなる小競り合い」から最終回(第48回)「報いの時」までずっと活躍してきた三浦義村(演:山本耕史)。
時に裏切り、時に協力しながら主人公・北条義時(演:小栗旬)の盟友として油断のならない距離感を保つ彼は、義時の死後どうなったのでしょうか。
相変わらず裏切り続けるのか、それとも……今回はそんな義村の「その後」をたどっていきましょう。
義時の後継者争い「伊賀氏の変」
承久の乱(承久3・1221年5~6月)に勝利してから3年が経った元仁元年(1224年)6月13日、執権・北条義時は62歳の生涯に幕を下ろしました。
後継者を公表しないまま世を去ったことから、さっそく始まる後継者争い(伊賀氏の変)。最有力候補は年齢も実績も申し分ない長男の北条泰時(演:坂口健太郎)か、“のえ(演:菊池凛子。伊賀氏)”が産んだ義時鍾愛の北条政村(演:新原泰佑)。
ただし泰時は側室(※)の子であり、一方の政村は正室の子。当時の価値観だと、これは大きなアドバンテージになります。
(※)大河ドラマでは八重(演:新垣結衣。伊東祐親の娘)ですが、『吾妻鏡』だと泰時の生母は阿波局。彼女とは別人です。また、実衣(演:宮澤エマ。義時の妹)も阿波局と呼ばれましたが、こちらも別人(阿波局は2名いました)。念のため。
一応、他の息子たちも一覧にしてみましょう。
長男・北条泰時……母親は側室・阿波局
次男・北条朝時……母親は正室・姫の前(演:堀田真由。比奈)
三男・北条重時……母親は同じく姫の前
四男・北条有時……母親は側室・伊佐朝政(いさ ともまさ)女
五男・北条政村……母親は継室・伊賀氏
六男・北条実義……母親は同じく伊賀氏
※ほか諸説あり。
朝時と重時は母の実家・比企一族が没落したため立場が弱く、母親が側室の有時は論外。そして伊賀氏は義時が特に可愛がっていた政村を猛プッシュします。
政村の「村」は三浦義村の「村」。元服に際して一文字与えた烏帽子親ですから、当然とばかり政村を支持しました。
いっときは義時死後の混乱に乗じて謀叛を起こし、泰時を討つなどという風聞も立ちましたが、泰時はそれを否定。また尼御台・政子(演:小池栄子)は義村を呼び出して釘を刺し、謀叛は未然に防がれます。
義村の寝返りにより、主力を抑えられてしまった伊賀氏一派は抵抗のすべなく解散。伊賀氏らは処罰されたということです。
「また裏切ったな!」地団太を踏んだであろう伊賀氏たち。彼女たちも、頼る相手が悪かったと後悔したでしょうか。
新生「鎌倉殿の13人」…評定衆として泰時を支える一方で
かくして第3代執権となった泰時のもと、義村は宿老として彼を支えました。
嘉禄元年(1225年)に大江広元(演:栗原英雄)や政子が亡くなると、泰時は合議制を復活させるべく評定衆(ひょうじょうしゅう)を結成。その一員に義村を抜擢します。
【評定衆・発足時メンバー】
太田康連(おおた やすつら。三善康信の子)
後藤基綱(ごとう もとつな)
斎藤長定(さいとう ながさだ)
佐藤業時(さとう なりとき)
中条家長(ちゅうじょう いえなが。八田知家の養子)
中原師員(なかはら もろかず。中原親能の従甥)
二階堂行村(にかいどう ゆきむら。二階堂行政の子)
二階堂行盛(にかいどう ゆきもり。二階堂行村の甥)
町野康俊(まちの やすとし。三善康信の子)
三浦義村
矢野倫重(やの みちしげ。三善康信の孫)
※50音順、その後随時入れ代わりがあります。
この11名に執権の泰時と、連署(れんしょ。副執権)の北条時房(演:瀬戸康史)の2名を加えて13名。これが新生「鎌倉殿の13人」、泰時が古き良き?昔を意識したのかはともかく、鎌倉幕政を支えたのでした。
貞永元年(1232年)に泰時が制定した御成敗式目(貞永式目)にも署名を添えた義村は名実ともに鎌倉のナンバー2(※鎌倉殿は別格)として実力を示します。
しかしそんな中でも現状に満足することなく常に権力の座を狙い続け、成長した三寅(演:中村龍太郎)改め第4代鎌倉殿・藤原頼経(ふじわらの よりつね)に接近。
完全に執権北条氏のお飾りとなっていた鎌倉殿(将軍)と連携、武家の棟梁として復権を狙う将軍派を形成していくのでした。
そんな義村のハレ舞台と言えば、何といっても嘉禎4年(1238年)2月17日の上洛シーン。
義村は頼経を護衛する随兵36騎を従え、大パレードの先頭を切って進みました。参加メンバーすべてを書くのは大変ですから、ここでは三浦一族だけピックアップしましょう。
三浦氏村(うじむら。又太郎左衛門尉。義村の長男・三浦朝村の子)
三浦員村(かずむら。三郎。氏村の弟)
三浦佐野太郎(さのたろう。不詳)
三浦光村(みつむら。壱岐前司。義村の三男・駒若丸、演:込江大牙)
三浦家村(いえむら。駿河四郎左衛門尉。義村の四男)
三浦資村(すけむら。駿河五郎左衛門尉。義村の五男)
三浦胤村(たねむら。駿河八郎左衛門尉。義村の八男)
三浦有村(ありむら。次郎。義村の弟・山口二郎有綱の子)
三浦泰村(やすむら。若狭守。義村の嫡男)
以上9名。次世代を担う若き精鋭たちを従えて、得意満面な義村の姿が目に浮かぶようです。
エピローグ・後鳥羽上皇の祟り?
あくまで三浦一族のために力を尽くした義村の最期は延応元年(1239年)12月5日。急死の原因は大中風(だいちゅうぶ。脳卒中か)と言います。
未刻。前駿河守正五位下平朝臣義村卒。頓死。大中風云々。入夜。前武州向故駿河前司第。令訪彼賢息等給。人々群集。左馬助光時爲將軍家御使云々。
※『吾妻鏡』延応元年(1239年)12月5日条
【意訳】午後2:00ごろ、義村が急死した。大中風とのこと。夜になって泰時が弔問に訪れ、息子たちが応対した。北条光時(みつとき。北条朝時の子)が鎌倉殿の名代として弔問に訪れたという。
平経高(たいらの つねたか)の日記『平戸記(へいこき。経高卿記)』によると、ほぼ同時期に亡くなった時房ともども「後鳥羽上皇の祟りではないか」と言及しています。
今暁関東の飛脚六波羅に到来すと。修理権大夫時房朝臣去る二十四日俄に卒去すと。日来病気無く、二十三日心神聊か違例の由これを語る。然れども殊なる事無し。仍って家中警固せず。戌の刻増気、二十四日戌の刻遂に閉眼すと。時房朝臣は、時政息、故義時朝臣の舎弟なり。関東に於いて両眼の如く世務を口入す。承久已後すでに二十年を送り、今頓死するの條奇しむべし思うべし。人口に云く、去年の歳暮義村頓死、今年また時房頓死、偏にこれ顕徳院の御所為……。
※『平戸記』延応2年(1240年。仁治元年)1月28日条
【意訳】今朝、関東の飛脚が六波羅に到着、時房が1月24日に亡くなったことを告げた。日ごろ病気もせず、1月23日に少し具合が悪そうにしていたが、元気そうだった。だから特に気にしてもいなかったところ、夜8:00ごろに体調が急変、翌24日の夜8:00ごろに閉眼(へいがん。亡くなること)した。時房は北条時政の子で、亡き義時の異母弟である。鎌倉にとって目や口のごとく政治を支え、承久の乱から20年が経ち、今さらこんな最期を遂げたのは実に不思議だ。人々は「去年の暮れに義村が死に、今年が明けて時房が死んだのは、顕徳院(後鳥羽上皇)の祟りではないか」と。
かつて時房は精鋭一千騎をもって上洛、朝廷を脅す暴挙に出ました。また義村は弟・三浦胤義(演:岸田タツヤ)の誘いを拒絶し、朝廷の勝利を妨げています。
後鳥羽上皇にとっては苦い敗北の元凶であり、絶対に許せなかったことでしょう。
終わりに
こうして世を去った三浦義村。鎌倉の喉元(三浦半島)で勢力を蓄え続け、その家督は嫡男・三浦泰村に受け継がれました。
その後、泰時が亡くなると北条経時(つねとき。泰時の孫。第4代執権)・北条時頼(ときより。経時の弟。第5代執権)と政情が不安定化。三浦一族は次第に野心を顕わします。
「今こそ、鎌倉を鎌倉殿の手に……!」
将軍派と執権派の対立は激化の一途をたどり、寛元4年(1246年)閏4月に「宮騒動」、翌宝治元年(1247年)6月5日には「宝治合戦」が勃発。三浦と北条の頂上決戦が繰り広げられたのですが、それはまた別の話し。
いつか三浦の天下を夢見て、絶えず牙を研ぎ続けた三浦義村。義時亡き後も衰えぬ野望を、是非ともどこかで演じて欲しいものです。
※参考文献:
- 飯田忠彦『系図纂要 四十八 平氏 三』国立公文書館デジタルアーカイブ
- 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡9 執権政治』吉川弘文館、2010年11月
- 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡10 御成敗式目』吉川弘文館、2011年5月
- 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 11将軍と執権』吉川弘文館、2012年1月
- 高橋秀樹『三浦一族の研究』吉川弘文館、2016年6月
- 細川重男『宝治合戦 北条得宗家と三浦一族の最終戦争』朝日新書、2022年8月
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