生涯において7度も主君を変えながらも、その才能と明晰な頭脳により、着実に出世した武将が藤堂高虎である。
やがて、彼にも終生にわたり仕えるべき主君と出会うこととなった。
これは君主を求め、戦国の世を生き抜いた男の話である。
君主を変える青年時代
※藤堂高虎
藤堂高虎(とうどうたかとら/弘治2年1月6日(1556年2月16日)~寛永7年10月5日(1630年11月9日))は、近江国犬上郡藤堂村(現・滋賀県犬上郡甲良町在士)の土豪・藤堂虎高の次男として生まれる。
父の虎高は、若くして近江から武田信虎(武田信玄の父)の家臣となり、「虎」の一文字を与えられるほどの有能な武将だったが、他の家臣に嫉妬されたため武田家を去った。藤堂村に戻ると、藤堂忠高の娘婿となり、後には近江の京極氏や浅井氏に仕えた。藤堂家は、戦国時代にあって没落しており、農民の身分となっていた。そのため、高虎も父と共に浅井長政の家臣となったが、足軽からのスタートであった。
1569年に北近江で一揆が発生し、父と兄が出陣することになると、まだ13歳だった高虎は同行を許されなかった。しかし、後を追いかけ一揆衆を討ち取ったため、浅井長政は活躍を褒め称え、備前兼光の刀と金一枚を与えたとされる。
さらに、元亀元年(1570年)の姉川の戦いに参戦して首級を取る武功を挙げ、長政から感状を受けた。高虎15歳のことである。天正元年(1573年)に浅井氏が織田信長によって滅ぼされると、浅井氏の旧臣だった阿閉貞征、次いで同じく浅井氏旧臣の磯野員昌の家臣として仕えた。
やがて近江を離れ、信長の甥・織田信澄の家臣として仕えるも折り合いが悪く長続きしなかった。
豊臣家家臣として
※聚楽第
その後、1576年に、21歳にして高虎は信長の重臣・羽柴秀吉の弟・秀長(後の豊臣秀長)に300石で仕える。秀長のもとでは織田信長の安土城築城にも参加し、このときから築城術を学んだとされ、与右衛門(よえもん)の通称も用いるようになった。
猿岡山城、和歌山城の築城に当たり、高虎は初めて普請奉行に任命される。これが高虎自身の最初の築城であった。
さらに戦場においても武勲を残し、秀吉からも認められたことで一万石の大名となる。
天正14年(1586年)、関白となった秀吉は、秀吉に謁見するため上洛することになった徳川家康の屋敷を聚楽第の邸内に作るよう秀長に指示、秀長は作事奉行(監督者)として高虎を指名した。高虎は渡された設計図には警備上の難点があるとして、独断で設計を変更、費用は自分で負担した。のちに家康に引き渡され、設計図と違う点を問われると、「天下の武将である家康様に危険があれば、主人である秀長の失態、さらには関白秀吉様の面目が立たないと考え、私の一存で変更いたしました。お気に触りましたら、ご容赦なくお切りください」と返した。
これにより、徳川家康は高虎を高く評価し、一目置くようになったといわれている。
天正19年(1591年)に主君の秀長が死去すると、秀長の甥で若き養子の豊臣秀保に仕え、秀保の代理として翌年の文禄の役に出征している。しかし、文禄4年(1595年)、主君の秀保が17の若さで死去。高虎は秀保の菩提を弔うために出家して、高野山にて隠棲した。
しかし、その才能を惜しんだ秀吉は生駒親正を使いに出して説得させ召還したため、高虎は還俗し、伏見城で秀吉と謁見する。
この時、5万石を加増されて伊予国板島(現在の宇和島市)7万石の独立大名となった。
豊臣家臣として朝鮮にも出兵し、朝鮮水軍を殲滅するという武功を挙げ、帰国後は板島丸串城の大規模な改修を行い、完成後に宇和島城に名称を変更している。
関ヶ原の戦いと江戸時代
※関ヶ原の戦いの藤堂高虎・京極高知陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町)。右が藤堂の旗。
慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉は死去するがそれ以前から豊臣家の家臣団は、武断派と文治派(石田三成ら)に分裂していた。
その中で、高虎は諸将に先んじて徳川家康に接触する。高虎は元々家康と親交があったことにより、「天下統一」という志を持っていることを理解しており、他の大名たちは地位や領地を守るために必至であることを比べ、家康には天下人となる力があると考えていたからだといわれている。
家康は豊臣秀吉の遺言で伏見城に滞在していたが、病に伏せた前田利家を見舞うために大坂に出向いた。高虎は、家康に反家康派の石田三成らが襲撃するとの噂があることを知らせ、見舞いを終えて大坂を発つまで家康を警護した。
これにより、高虎に対する家康の信頼は益々大きくなる。
慶長5年(1600年)には、家康による会津征伐に出陣し、9月15日の関ヶ原本戦では大谷吉継隊と戦った。さらに西軍の武将らに対しても東軍への寝返りの調略を行っている。
戦後、これらの関ヶ原での活躍により、家康によりこれまでの宇和島城の他、新たに今治城12万石が加増され、合計20万石となった。これにより、高虎は新たな居城を今治城に定めて改築を行い、宇和島城には高虎の従弟藤堂良勝が城代として置かれた。
徳川家の忠臣として
※今治城址
その後、高虎は徳川家の重臣として仕え、江戸城の改築なども手掛けたため、伊賀国内10万石、並びに伊勢安濃郡・一志郡内10万石で計22万石に加増、移封され、津藩主となる。現在の三重一帯を治める大名となったのだ。
今治城には高虎の養子であった藤堂高吉を城代として置いた。家康は高虎の才能と忠義を高く評価し、外様大名でありながら譜代大名と同様の扱いで重用した。
慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣、夏の陣でも徳川方として戦い、戦果を挙げた。その功績により伊賀国内と伊勢鈴鹿郡・安芸郡・三重郡・一志郡内で5万石を加増され計27万石となった。
元和2年(1616年)の家康死去の際には枕元にいることを許され、家康没後は第2代将軍徳川秀忠に仕える。一方で内政にも精力的に取り組み、上野城や津城の城下町建設と地方の農地開発、寺社復興に取り組み、藩政を確立させた。
しかし、元和9年(1623年)ころから目の病を患っており、寛永7年(1630年)についに失明してしまい、同年10月5日に江戸の藤堂藩邸にて息を引き取る。享年75であった。葬儀に際して遺骸を清めていた若い近習が驚いたことがある。
高虎の体はいたるところに隙間なく傷があり、手足の指も数本失っていた。それはまさに戦国の時代を生き抜くための戦いの生涯だったことを物語っていた。
藤堂高虎 は合理主義者だった
※津城址にある藤堂高虎像
高虎は生涯で何人もの主君に仕えたことにより、否定的に描かれる傾向が多い。しかし、資料をよく検証してみると違う一面が浮かび上がってきた。
高虎の考え方は、現代におけるエリートビジネスマンと同じだったということである。しかも、日本のビジネスマンではなく、ウォール街などで働くより合理主義的なビジネスマンのそれと共通している。
それは、自分の才能を冷静に分析、把握し、それに見合うだけの禄を与えてくれる主君には誠意を持って仕えること。江戸時代以前の日本では、家臣は自分の働きに見合った恩賞を受け、主君も将来性のある人物を選ぶのが当たり前であり、何度も主君を変えるのは珍しいことでもなかった。しかし、他の高名な武将は忠義によって主君に仕えることも多かったため、高虎の考えはより異様に見えたのである。
高虎とて、一度主君と仰げば惜しみなく才能を活かし、忠義を尽くした。事実、江戸幕府の公式記録である『徳川実紀』(とくがわじっき)には、高虎について「神祖(家康)の神慮にかなっていただけでなく、今の大御所(秀忠)も世に頼もしく思い、家光公も御父君に仰せられる事の多くを、この人(高虎)に仰せになった」とあるほど、徳川3代の将軍に信任を受けていた。
最後に
家臣への対応も高虎らしい逸話が残っている。主君が死ねば家臣は後を追って腹を切るのが当然の戦国時代において、高虎はこれを厳しく禁じた。生きていれば嫡子の高次を支えてくれる有能な人材達であるためだった。それでも同意しない家臣には家康が「藤堂は我が徳川の先鋒。命令に従わず1人でも殉死したら藤堂の先鋒を取り消す」と厳命したため、その者も生きる事に同意したという。
高虎は自らが苦労人のため人情に厚い男であった。表向きの理由はどうであれ、そのような性格もあり殉死を厳禁としたようだ。
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