安土桃山時代

大友宗麟について調べてみた【キリシタン大名】

謎の多い 大友宗麟

大友宗麟

大友義鎮(おおともよししげ)は、大友氏第21代当主で、一般的には宗麟(そうりん)の号で知られている大名です。
最大の版図を誇った1560年代には、豊後、豊前、筑前、筑後、肥前、肥後の九州北部6か国を配下に治め、守護や九州探題に補任されるなど、名実共に隆盛を極めました。

キリシタン大名としても、つとにその名は知られており、キリスト教を庇護し、教会や病院を領国内に築くなど西洋文化への導入にも積極的であったとされています。こうした文化にとどまらず、鉄砲や火薬の原料である硝石の輸入で武備の増強に努め、日本で最初と伝えられる「国崩し」と称された大砲を導入するなど、先見の明も窺わせました。

その一方で、好色・放蕩といった逸話も多く残されており、その治世の正否に評価が分かれている武将でもあります。

二階崩れの変

宗麟は、享禄3年(1530年)1月に大友氏第20代当主の大友義鑑(よしあき)の嫡男として豊後の府内で生まれました。

若き日の宗麟自身の行状の不良故かは定かではありませんが、父・義鑑は宗麟の異母弟にあたる塩市丸に家督を継がせようとしたと言われ
ています。

この宗麟敗着の動きを察知した家臣に逆襲され、義鑑と塩市丸は殺害されたとされています。この出来事は「二階崩れの変」と呼ばれますが、宗麟が家督を相続した逸話として伝えられています。

これにより若い21歳の宗麟が第21第目大友家当主の座に座り、北部九州に覇を唱える戦国大名として誕生したのでした。

外交・調略による支配

宗麟が当主となった翌・天文20年(1551年)、周防で陶晴賢(すえはるたか)が主君の大内義隆を自害に追い込む事態が発生しました。

晴賢から協力を要請された宗麟は、大内家の後継者として、自らの弟・晴英を大内義長と名乗らせて大内氏の名跡を継がせました。
この工作により、北部九州で大内家に従属していた国人らを大友家に従属させ且つ、貿易港としての博多を配下に置いたことで、経済的な利益をも同時に手に入れたのでした。

これは宗麟の秀でた外交・調略の才が発揮された出来事でした。また、優れた家臣の戸次鑑連(立花道雪)、吉弘鑑理高橋紹運らを輩出したこともあり、大友氏は一躍九州の覇権を窺う勢力を持つに至りました。

更に宗麟は、天文23年(1554年)に肥後の菊池氏を滅ぼして勢力圏を拡大しました。同年、室町幕府第13代将軍・足利義輝に献上品として鉄砲などを納め、大友氏の家格を向上させる手腕・政治力も発揮ました。この工作では、永禄2年(1559年)6月に豊前・筑前の守護へ、同年11月には九州探題に補任され、室町幕府が認めた正統な支配権を示すこととなりました。

また宗麟個人も永禄3年(1560年)に左衛門督に任じられ、官位を手中にして権勢を高めました。

弘治3年(1557年)に毛利元就が大内氏を滅ぼし北九州に侵攻してくると、宗麟は毛利との戦いに踏み出し、毛利と通じていた筑前の秋月文種を討ち、北部九州における支配を継続しました。

大友家の黄昏

永禄5年(1562年)に入り、門司城の戦いで毛利元就に敗れた宗麟の大友氏は、以後徐々に劣勢となっていきました。

尚、この頃「休庵宗麟」を号したものと伝えられています。

※男女神社から見た今山古戦場と佐賀平野 wikiより

大友氏は、元亀元年(1570年)に今山の戦い龍造寺隆信に大敗を喫し、筑後や肥前における龍造寺氏の台頭を防ぐことが困難になっていきました。

宗麟は、天正4年(1576年)に大友家の家督を長男の義統(よしむね)に譲りましたが、自身の権勢も維持したままの言わば二元政治状態を敷きました。

次いで天正5年(1577年)、薩摩の島津氏が日向へ侵攻してきたことを受け、これを迎え討とうと出陣しました。しかし翌・天正6年(1578年)に耳川の戦いで大敗を喫し、多くの有力な家臣を失うことになりました。この結果、大友氏の領内の各地で国人の離反の動きが加速し、大友氏の領土は減少の一途をたどることになりました。

天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで龍造寺隆信が島津家久に討たれた際には、一旦は立花道雪が筑後の大半を奪回しました。

しかし道雪が病死すると、これを見た島津がすかさず北上してきました。高橋紹運や立花宗茂の力で島津の侵攻を遅らせはしたものの、もはや大友氏のみの力で島津を撃退することは出来なくなっていました。

秀吉への臣従

宗麟は天正14年(1586年)、大阪城で豊臣秀吉に臣従し支援を要請しました。

天正14年(1586年)12月になると島津が戸次川の戦いで豊臣の先発隊を壊滅させて、大友氏の本拠地・豊後府内にまで攻め込まれました。

※フランキ砲「国崩し」(東京 遊就館蔵)wikiより

宗麟はこの時、臼杵城に籠城し「国崩し」と呼ばれた大砲を用いてなんとか城を守りました。

ようやく、天正15年(1587年)に豊臣の総勢10万もの兵が九州に到着し、これを察知した島津が撤退、ひいては秀吉の軍門に下ることで九州は平定されました。宗麟はその最中に病いに倒れ、島津の降伏直前に豊後の津久見で病死したとされています。

尚、義統はこの秀吉による九州平定後、豊後一国のみを所領として与えられました。後の江戸期には、大友氏は改易され、徳川の旗本として続きました。

関連記事:
立花宗茂の実父・高橋紹運について調べてみた
立花宗茂【秀吉に絶賛された西の最強武将】
島津4兄弟の末弟・稀代の名将・島津家久について調べてみた

アバター

swm459

投稿者の記事一覧

学生時代まではモデルガン蒐集に勤しんでいた、元ガンマニアです。
社会人になって「信長の野望」に嵌まり、すっかり戦国時代好きに。
野球はヤクルトを応援し、判官贔屓?を自称しています。

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Audible で聴く
Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 関ケ原の戦い以降の長宗我部氏と土佐について
  2. 比叡山で3000人以上殺害した信長は、本当は信心深かった?
  3. 陶晴賢(すえはるたか)下克上で主君を倒すも毛利に敗れた武将
  4. 朝倉義景 ~「信長を苦しませ頭を下げさせた 姉川の戦いと志賀の陣…
  5. 【天才すぎて父に嫌われた】 若い頃の武田信玄
  6. 武田信玄「幻の西上作戦」 前編~「なぜ家康との今川領侵攻の密約を…
  7. 本多正純 ~幕府で権勢を振るうも疎まれて改易になった家康の側近【…
  8. 直江状とは? 「なぜ上杉景勝は徳川家康と対立したのか」

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

【三方ヶ原の戦い】どうして徳川家康は鶴翼の陣で武田信玄に挑んだの?素朴な疑問を考察【どうする家康】

元亀3年(1572年)12月22日、徳川家康(演:松本潤)が上洛する武田信玄(演:阿部寛)を迎え撃ち…

番町会について調べてみた【帝人事件】

番町会という組織について聞いたことがあるという人はあまりいないだろう。しかし、この会は戦前の日本…

横浜関帝廟に祀られた関羽は、どうして商売繁盛の神様になったの?【三国志】

横浜(神奈川県横浜市)の三大名所と言えば、みなとみらい(&赤レンガ)と山下公園、そして中華街でしょう…

モンタナ級戦艦 〜大和を凌ぐアメリカ海軍幻の巨大戦艦

計画のみに終わった幻の戦艦モンタナ級戦艦はアメリカ海軍において計画された最大の戦艦でした…

「マレーの虎」と称された軍人・山下奉文

本人は嫌った「マレーの虎」山下奉文(やましたともゆき)は、太平洋戦争の初頭においてイギリスの…

アーカイブ

PAGE TOP